森岡元徳
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保20年(1735年) |
死没 | 天明5年4月24日(1785年6月1日) |
別名 | 金吾、主膳 |
墓所 | 青森県弘前市の梅林寺 |
主君 | 津軽信寧 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 称・藤姓津軽氏支流森岡氏 |
父母 | 森岡元隆 |
兄弟 | 元生、元徳 |
子 | 元侯 |
森岡 元徳(もりおか もとのり)は、江戸時代中期の弘前藩士。
生涯
[編集]享保20年(1735年)、森岡元隆の次男として誕生。宝暦元年(1751年)4月に兄・元生が死去、家督と寄合格1000石を継いだ。
同2年(1752年)大組武頭、同4年(1754年)表書院大番頭となり、同7年(1757年)参政となる。同9年(1759年)、祖先・森岡信元の所持品「来金道の脇差」を信元が殺害された久渡寺に寄贈し、通称を信元と同じ金吾に改名した。
明和8年(1771年)に家老となるも、飢饉の連続に対して庶民の救済をせず、藩主に虚偽の報告をして特定商人と結び、贅沢にふけっていた。天明4年(1784年)、家老を免職となり、知行を300石に減らされ、蟄居させられた。翌年(1785年)、罪を詫び、自宅の物置で自害した。
なお、久渡寺(青森県弘前市)に現存する円山応挙の幽霊画「返魂香之図」について、2021年、弘前市文化財審議委員の調査で絵のモデルが元徳が亡くした妾「國(くに)」である可能性が高いことが判明した[1]。
出典
[編集]- ^ 久渡寺の幽霊画は家老の妾がモデル/弘前 東奥日報、2021年5月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社