コンテンツにスキップ

梁士詒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年3月24日 (金) 14:33; Anakabot (会話 | 投稿記録) による版 (Bot作業依頼# 清末民初のリンク修正依頼)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
梁士詒
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1869年5月5日
同治8年3月24日)
死去: 1933年民国22年)4月9日
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 広東省広州府三水県
職業: 中華民国誥授一等嘉禾章上卿銜中卿
国務議会参政院参知政事国務総理
民国交通銀行総裁 など
清朝進士;民国政治家、経済家
各種表記
繁体字 梁士詒
簡体字 梁士诒
拼音 Liáng Shìyí
ラテン字 Liang Shih-i
注音二式 Liáng Shìyí
和名表記: りょう しい
発音転記: リャン・シーイー
テンプレートを表示

梁 士詒(りょう しい)は、清末民初の政治家・経済家。翼夫。号は燕孫北京政府袁世凱の皇帝即位を推進した。また、安徽派の政治家で、交通系(特に旧交通系)と呼ばれる政治集団の指導者としても知られる。後に国務院総理もつとめた。

生涯

[編集]

「小総統」

[編集]

1889年光緒15年)に挙人1894年(光緒20年)に甲午科進士となる。その後、翰林院編修に任命された。1903年(光緒29年)には北洋編書局総弁をつとめる。1904年(光緒30年)、唐紹儀に随従してインドに向かい、中英チベット条約を議定する。翌年に帰国し督弁鉄路総文案に就任した。1907年(光緒33年)、五路提調処提調兼交通銀行幇理に就任し、さらに鉄路総局局長に転任した。1911年宣統3年)の武昌起義後に郵伝部副大臣(署理大臣)に就任した。

1912年民国元年)3月、梁士詒は北京政府の総統府秘書長に就任し、同年5月、交通銀行総経理を兼任した。以後、周自斉朱啓鈐らとともに、交通系と呼ばれる政治集団を形成する。1913年(民国2年)5月、署理財政部次長兼代理部務をつとめる。9月18日、袁世凱の指図を受けていた梁士詒は、国会で袁の御用政党である公民党を結成した。10月、軍・警察を動員して国会議場を包囲する中で、袁世凱を正式に大総統に選出させた。その権力行使の様から、梁士詒は「小総統」とあだ名されたという[1]1914年(民国3年)、税務処督弁に就任した。

度重なる失脚、復帰

[編集]

1915年(民国4年)、梁士詒は袁世凱の皇帝即位のために請願活動を行った。しかし帝制が失敗し、翌年6月に袁世凱が死去すると、梁士詒は帝制運動の主犯として指名手配されてしまい、香港へ逃亡した。1918年(民国7年)2月に特赦されると、安徽派の政治家として復帰する。同年6月、交通銀行董事長兼国内公債局総理の地位に就いた。9月、安福国会の参議院院長をつとめる。1921年(民国10年)12月、奉天派張作霖の支援を得て梁士詒は国務院総理に就任した。しかし翌年1月に、内閣は早くも倒れている。同年4月、第1次奉直戦争で奉天派が直隷派に敗北すると、梁士詒は日本に亡命した。

1925年(民国14年)2月、段祺瑞執政政府で、梁士詒は財政善後委員会委員長兼交通銀行総理として復帰する。1926年(民国15年)、張作霖に招聘されて政治研討会会長に就任し、翌民国16年(1927年)、税務処督弁となった。1928年(民国17年)、北京政府崩壊により梁士詒は国民政府から指名手配を受けたため、香港へ逃亡した。後に赦され、1932年(民国21年)、国難会議会員として招聘されている。

1933年(民国22年)4月9日に死去。享年65(満63歳)。

脚注

[編集]
  1. ^ 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、60頁)。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、2007年、ISBN 978-7-101-05531-3
 清の旗
先代
楊士琦
郵伝部大臣
1911-1912
次代
-
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
(創設)
総統府秘書長
1912年3月 - 1914年5月
次代
阮忠枢
(総統府内史監)
先代
顔恵慶
国務総理
1921年12月 - 1922年1月
次代
顔恵慶