コンテンツにスキップ

一柳直次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。らんぴょう (会話 | 投稿記録) による 2023年3月17日 (金) 08:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (volumeが正しいと思われます。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
一柳直次
時代 江戸時代前期
生誕 元和9年(1623年
死没 万治元年12月27日1659年1月19日
別名 宇右衛門[1]通称
戒名 円智院殿礼翁宗正大居士[注釈 1]
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従五位下土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
播磨小野藩
氏族 小出氏一柳氏
父母 小出吉親一柳直家
兄弟 青龍院、杉原重長正室、加藤直泰正室、
小出英知板倉重矩正室、直次
半井成忠室、井上正義正室、小出吉明室、井上正義継室、小出重治室、金森七之助室ら
一柳直家[1]
末礼直昌加藤直泰養女(板倉重種正室)、小出吉忠 [3]
テンプレートを表示

一柳 直次(ひとつやなぎ なおつぐ)は、江戸時代前期の大名播磨国小野藩2代[要出典]藩主[注釈 2]

生涯

元和9年(1623年[1]丹波園部藩主・小出吉親の次男として生まれる[1]寛永10年(1633年)、11歳で徳川家光に初謁[1]

寛永19年(1642年)、一柳家先代・直家の臨終に際して養子となる[1](直次の姉が、直家の弟である一柳直頼(小松藩主)の妻という縁にあたる)。直家は自らの娘を直次に娶せ遺領を継がせようとしたが[1]。しかしこれが末期養子の禁に抵触するという理由でとがめらた[1]

寛永20年(1643年)3月15日に伊予国の1万8600石が収公された[1]。直家の娘と直次との結婚は許され、播磨国加東郡の1万石にが与えられた[1]。この結果、小野藩の所領は2万8600石から1万石に減少した。同年4月1日、直次は徳川家光に拝謁し、家光と家綱に刀を献上している[1]。5月、封地に赴く暇を賜う(参勤交代[1]

加東郡の分領支配のために置かれていた敷地陣屋(現在の小野市敷地町、大部小学校付近)は規模が小さかったとみられ[5]、承応2年(1653年)に直次は小野陣屋(小野市西本町、小野市立小野小学校付近)に移る[5]

万治元年(1658年)12月27日[1]江戸上野の寒松院で死去。享年36[1]。跡を長男の末礼が継いだ。

脚注

注釈

  1. ^ 『寛政譜』では「圓智院禮翁宗正」[1]。『一柳家史紀要』では「禮翁」の部分を「體翁」としている[2]
  2. ^ 『日本大百科全書(ニッポニカ)』では、直次が寛永20年(1643年)に相続を認められたことをもって小野藩の成立とする[4]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.157、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.157。
  2. ^ 一柳貞吉 1933, p. 47.
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.157-158、『新訂寛政重修諸家譜 第十』pp.157-158。
  4. ^ 小野藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2021年9月19日閲覧。
  5. ^ a b 佐野充彦「「おの歴史散歩」vol.52 「城下町」への憧憬やまず」『広報おの』第657巻、小野市、2014年12月、34頁、2021年9月11日閲覧 

参考文献

外部リンク