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弘宗王

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弘宗王
時代 平安時代前期
生誕 不詳
死没 貞観13年9月6日871年10月23日
官位 従四位下越前守
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 皇族[1]
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弘宗王(ひろむねおう)は、平安時代前期の皇族舎人親王の子孫。官位従四位下越前守

経歴

仁明朝承和8年(841年従五位下長門守に叙任される。承和13年(846年)従五位上に昇叙。

文徳朝仁寿元年(851年)子息8名について中原真人の賜姓を請い、許されて臣籍降下させる[2]。仁寿2年(852年丹後守次いで讃岐権守と引き続き地方官を務めるが、讃岐国に赴任して間もなく仁寿3年(853年)にかけて満濃池の修築を行っている[3]。仁寿4年(854年正五位下に昇叙。斉衡4年(857年)に讃岐国農民らからの訴えにより、朝廷から事実関係を推問するための詔使が派遣され、弘宗王は罪人として同国内への禁固に処される。しかし、弘宗王は逃亡して入京したために右京職に散禁[4] された。

のち許されて、清和朝貞観2年(860年左京大夫に任ぜられ官界に復帰するが、間もなく大和守と再び地方官に転じ、貞観4年(862年)には従四位下に叙されている。また同年、参議以上の官職に就いている者に対して、時の政治に関して議論させ諸政策の効果について詳らかにせよとの詔勅が出された際、右大臣藤原良相により参議以外の者で意見を述べさせるべき者の一人として弘宗王の名が挙げられ、国司としての経験が豊富で地方官として名高く、自分が必要と考える施策に費用をつぎ込むことで、時には法令に抵触することもあったが、経国を語るに十分な才覚があったと評されている[5]。貞観5年(863年)短期間左中弁を務めるが、間もなく大和守に復した。また、貞観6年(864年仁明天皇女御藤原貞子藤原三守の娘)が薨去した際には葬儀を監護した。貞観7年(865年越前守に任ぜられる。

貞観13年(871年)9月6日卒去。最終官位は越前国守従四位下。同年10月23日に越前国の民から出挙の数を水増ししてその利息を私物化したとして、国司としての2度目の不正が訴えられるが、既に没していたことから断罪を逃れた[6]

官歴

六国史』による。

系譜

以下理由より、弘宗王は舎人親王の子孫と見られる[9]

なお、舎人親王と弘宗王の間をつなぐ系譜として以下があるが、史料的根拠としては乏しく、特に後者の豊前王の子に弘宗王を充てるのは年代的にも無理があると評価されている[9]

  • 舎人親王-船王-葦田王-垣見王-弘宗王(中田憲信『皇胤志』)[11]
  • 舎人親王-船王-栄井王-豊前王-弘宗王(「近江国御家人井口中原系図」鈴木真年『諸氏家牒』所収,東大史料編纂所蔵)[12][13]

脚注

  1. ^ ただし、六世王のため王氏には入らない。
  2. ^ a b 『日本文徳天皇実録』仁寿元年9月26日条
  3. ^ 『満濃池後碑文』
  4. ^ 縛ったり枷をはめたりせず、一定の場所に閉じ込めておく刑罰。
  5. ^ 『日本三代実録』貞観4年12月27日条
  6. ^ 日本三代実録貞観13年10月23日条
  7. ^ または讃岐守
  8. ^ 「近江国御家人井口中原系図」(鈴木眞年『諸氏家諜』上,所収)
  9. ^ a b 赤坂[2020: 64]
  10. ^ 『日本三代実録』貞観16年2月23日条
  11. ^ 中田[1994: 41]
  12. ^ 宝賀[1986: 170]
  13. ^ 『日本三代実録』(貞観7年2月2日条)で豊前王を舎人親王の四世としていること、船王(764年配流)と栄井王(828年没)の活躍時期の相違から、船王-葦田王-栄井王とつなげる推定もある(宝賀[1986: 174])

参考文献

  • 武田祐吉佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年
  • 赤坂恒明『王と呼ばれた皇族 古代中世皇統の末流』吉川弘文館、2020年 
  • 中田憲信編、木村信行訳『皇胤志 第二巻』日本歴史研究所、1994年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年