鍋島忠茂
鍋島忠茂像(鹿島史料集より) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正12年11月28日(1584年12月29日) |
死没 | 寛永元年8月4日(1624年9月16日) |
改名 | 平七郎・半助(幼名)、忠茂 |
別名 | 小河直房(別名) |
戒名 | 得髄院殿悟艘浄頓大居士 |
墓所 | 千葉県香取市上小川の円通寺 |
官位 | 従五位下、和泉守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠 |
藩 | 肥前鹿島藩主 |
氏族 | 鍋島氏→小河氏→鍋島氏 |
父母 |
父:鍋島直茂 母:石井常延の娘・陽泰院(一説には井手口小左衛門の妹とも) |
兄弟 | 勝茂、忠茂 |
妻 |
正室:江上家種の娘・秋山砂智(智子) 継室:関部兵部の娘・隆子(仏晃院) |
子 | 正茂、佐野茂久、娘(鍋島茂綱室)、茂貞 |
人物
[編集]天正12年(1584年)11月28日、鍋島直茂の次男として佐賀城で生まれる。兄は佐賀藩の初代藩主である鍋島勝茂。生母については、『寛政重修諸家譜』では石井常延の娘・陽泰院としているが、他の系図では井手口小左衛門の妹としている。ただし、忠茂創建になる泰智寺は、忠茂が両親のために建て、寺号を直茂の法名・日峯宗智、陽泰院の法名から命名しており、陽泰院が生母であった可能性が高い。
忠茂は、早くから父や兄と共に豊臣秀吉に仕え、文禄4年(1595年)の文禄の役では父や兄と共に朝鮮に渡海して朝鮮軍と戦った。慶長2年(1597年)の慶長の役にも参加している。
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで、兄の勝茂が西軍に与したため、戦後に徳川家康によって処罰されかけたが、父の命令で西軍の立花宗茂を攻めて鍋島家の存続に尽力した。慶長6年(1601年)には家康への人質として江戸に赴いた。慶長7年(1602年)から家康の三男・秀忠の近習として仕えたが、秀忠に寵愛されて「忠」の偏諱を授けられて忠茂と改名した。また、下総矢作に5000石を与えられ、従五位下・和泉守に叙任されることとなった。
慶長13年(1608年)に中風を患ったために帰国を許され、以後は蓮池で養生した。しかし、父や兄からは幕府とのパイプ役として重んじられて、慶長14年(1609年)に2万石を分知され、下総の5000石と合わせて2万5000石の大名となり、常広城を修築して居城とし、鹿島藩を立藩した。しかし病気のため、藩政を執ることはほとんどなかったといわれる。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が始まると、忠茂は病身を押して参加したため、秀忠に激賞された。その後は矢作で療養したが、回復せずに寛永元年(1624年)8月4日に矢作で死去した。享年41。
跡を長男の正茂が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女