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グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ

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グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ
Guidantonio da Montefeltro
ウルビーノ伯
モンテフェルトロ家の紋章
在位 1404年 - 1443年

出生 1377年
死去 1443年2月
配偶者 リンガーダ・マラテスタ
  カテリーナ・コロンナイタリア語版
子女 オッダントーニオ2世
スヴェヴァ
フェデリーコ 他
家名 モンテフェルトロ家
父親 アントニオ2世・ダ・モンテフェルトロ
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グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ(Guidantonio da Montefeltro, 1377年 - 1443年2月)は、イタリア貴族1404年よりウルビーノ伯。

生涯

1404年、父であるアントニオ2世・ダ・モンテフェルトロの死去により、一族の領地であったイタリアのマルケ周辺を継承した。 のちに、教皇の宗主権を放棄し、ナポリ王のラディズラーオ1世と同盟を組んだ。1411年にラディズラーオ1世はローマを制圧した。

グレゴリウス12世により破門されると、その動きを利用してアッシジ征服へ向かった。また、カーリフォルリフォルリンポーポリの城を支配下に置いた[1]

のちにローマ教皇のマルティヌス5世と、彼の敵であったブラッチョ・ダ・モントーネ英語版と和解した。 1427年にウルバーニアを占領した。

1443年に死去。彼の息子であるオッダントーニオ (Oddantonio da Montefeltroがウルビーノ伯を後継した。

家族

1397年にリンガーダ・マラテスタと結婚したが、2人の間に子供は生まれなかった。 グイダントーニオはカテリーナ・コロンナイタリア語版と再婚し、9人の子が産まれた。 オッダントーニオとは別の有名なグイダントーニオの子にフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがいる。フェデリーコはウルビーノ公であり、イタリア・ルネサンス芸術の最も著名なパトロンの一人であった。また、娘のスヴェヴァはペーザロを治めたアレッサンドロ・スフォルツァと結婚している[2]

脚注

  1. ^ *Grossi, Carlo (1819). Degli Uomini Illustri di Urbino Commentario. Urbino: Vicenzo Guerrini Stampatore. p. 5. https://books.google.it/books?id=neU_AAAAcAAJ&pg=PA227 
  2. ^ のちに婚姻解消し、修道女となる。1754年、ベネディクトゥス14世により列福。

出典

  • Litta, P. (1834). Famiglie celebri italiane. Milan 
  • Ugolini, F. (1859). Vite dei conti e duchi di Urbino. Urbino 
先代
アントーニオ2世
ウルビーノ伯
1404年 - 1443年
次代
オッダントーニオ2世