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耶律喊舎

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耶律 喊舎(やりつ かんしゃ、Yelü Hanshe、? - 1219年)は、末に活躍した契丹人。後遼政権最後の君主。

概要

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後遼政権の成立

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1213年3月、契丹人の耶律留哥モンゴル帝国の侵攻によって金朝の支配が緩むと遼東で自立して「遼(東遼)」を建国した。しかし、東遼政権の内部では皇帝号を称するべきであるとする耶律廝不とモンゴル帝国を宗主として尊重すべきとする耶律留哥の意見が対立し、やがて耶律留哥は密かにチンギス・カンの下を訪れて改めて忠誠を誓った。耶律留哥はチンギス・カンの下から耶律乞奴ら使者を派遣して反対派閥を従わせようとしたが、不利を悟った耶律廝不は耶律乞奴耶律金山・耶律青狗・耶律統古与らを味方に引き入れて東遼政権から自立し、独自に「遼」の皇帝を称した[1][2][3]。この政権は耶律留哥の遼(東遼)などと区別するために、一般に「後遼」と呼ばれる。

しかし、耶律廝不の即位から僅か数カ月にして耶律青狗が裏切って金に降り、耶律廝不は耶律青狗によって殺されてしまった。そこで、丞相の地位にあった耶律乞奴が監国として国政を預かったが、モンゴル軍の助けを得た耶律留哥と金朝軍の双方から攻撃を受けて高麗に逃れた[4]。高麗領に入った後遼政権はなおも内部対立が続き、耶律乞奴を耶律金山が殺し、耶律金山を耶律統古与が殺し、最後には耶律喊舎が耶律統古与を殺して後遼の君主となった[5]

江東城の戦い

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1218年4月、契丹兵は更に南下して清川江・大同江流域に進出したため、高麗は新たに金君綏を趙沖の代わりに西北面兵馬使とした[6][7]。この年、契丹兵の行動範囲は更に広がり、楊州(雲山郡博川郡の間)を侵掠し、谷州(黄海道の東端)で高麗軍と戦った[8][9]。一方、趙沖は諸道の兵を集めて将軍の李敦守・金季鳳らとともに契丹兵を討ち、「賊の首魁(=喊舎)」は退却して江東城に入った[10]

同年末の12月、突如として高麗の東北国境から「モンゴル(蒙古)元帥」の哈真と札剌率いるモンゴル帝国軍1万・蒲鮮万奴が派遣した完顔子淵率いる大真国軍2万の連合軍が現れ、高麗国に協力して「丹賊(=後遼政権)」を討伐することを申し出た[11][12]。この頃、天候は大雪となったためにモンゴル・大真国連合軍は兵站の確保に苦労し、後遼政権の拠る江東城を攻めあぐねた[13]。そこで、哈真は通訳の趙仲祥と徳州から伴っていた進士の任慶和を高麗軍の指揮官趙沖の下に派遣し、「皇帝(=チンギス・カン)は契丹兵が爾の国に逃れ今や三年になるも、未だ掃滅することができないため、兵を派遣してこれを討伐しようとしている。爾の国がただ兵糧を支援してくれれば、足りないものはない」と申し送り、また「皇帝は『賊(後遼)を破った後、約して兄弟の関係を結ばん』と命じている」とも伝えている[14]。趙沖は尚書省の許可を得た上で中軍の判官金良鏡に米一千石を輸送させ、これを迎えたモンゴル・大真国の両元帥は宴を設けた上で「両国が兄弟の関係を結んだこと、国王に報告して文牒を受けたならば、我らはそれを皇帝の下に報告しよう」と述べている[15][16]

数度のやり取りを経て高麗軍とモンゴル・大真連合軍は協力して江東城を攻めることを約し[17]、南門から東南門をモンゴル軍を率いる哈真が、西門から北を大真国軍を率いる完顔子淵が、東門から北を高麗軍を率いる金就礪が担当することが決められた[18]。モンゴル・大真国・高麗国連合軍の威容を見た後遼軍は戦わずして戦意を喪失し、40名余りが城を出てモンゴル軍に降ったため、敗北を悟った「賊の首魁たる喊舎王子(賊魁喊舎王子)」は自ら首を括り1219年正月14日に江東城は陥落した[19]。後遼に属する官人・軍卒・婦女5万人余りは城を開いて投降し、これを受けた哈真らは喊舎の妻子及び丞相・平章ら高官100名余りを処刑したほかは命を取らず捕虜とした[20][21]

耶律喊舎の死と江東城の陥落を以て後遼政権は瓦解し、残存勢力は東遼政権に再吸収されたとみられる[22]。耶律喊舎の治世は耶律統古与の治世とあわせて2年近くであったと伝えられる[23]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「留哥遣大夫乞奴・安撫禿哥与倶、且命詰可特哥曰『爾妻万奴之妻、悖法尤甚。其拘縶以来』。可特哥懼、与耶廝不等紿其衆曰『留哥已死』。遂以其衆叛、殺所遣三百人、惟三人逃帰。事聞、帝諭留哥曰『爾毋以失衆為憂、朕倍此数封汝無吝也。草青馬肥、資爾甲兵、往取家孥』」
  2. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「丙子、乞奴・金山・青狗・統古与等推耶廝不僭帝号於澄州、国号遼、改元天威、以留哥兄独剌為平章、置百官」
  3. ^ 池内1943,568-569頁
  4. ^ 池内1943,592-593頁
  5. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「乞奴走高麗、為金山所殺、金山又自称国王、改元天徳。統古与復殺金山而自立、喊舎又殺之、亦自立」
  6. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗五年夏四月]丙寅、中軍兵馬使報丹兵大至。丁卯、以左諫議大夫金君綏、代趙沖為西北面兵馬使」
  7. ^ 池内1943,600頁
  8. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗五年八月]癸亥、丹兵寇楊州。己巳、西海道防守軍与丹兵、戦于谷州、斬首三百餘級」
  9. ^ 池内1943,601頁
  10. ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「沖等道長湍至洞州、遇賊東谷、擒其謀克高延・千戸阿老、次成州、以待諸道兵。慶尚道按察使李勣引兵来、遇賊不得前、遣将軍李敦守・金季鳳、撃之以迎勣。既而、賊従二道、倶指中軍、我張左右翼、鼓而前、賊軍望風而潰。敦守等与勣来会、録事申仲諧分其兵輸軍食、賊又要之。将軍朴義隣敗之于禿山。賊散而復集、騎数万尽鋭来攻。我又敗之。亜将脱剌逃帰。賊魁又欲引還、慮我要其帰路、入保江東城」
  11. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗五年]十二月己亥朔、蒙古元帥哈真及札剌、率兵一万、与東真万奴所遣完顔子淵兵二万、声言討丹賊、攻和・猛・順・徳四城、破之、直指江東城」
  12. ^ この時、モンゴル軍が落とした和州(金野郡)・猛州(金野郡と孟山郡の境界)・順州(徳川市成川郡の中間)・徳州(徳川市)の諸城は現在の咸鏡南道から平安南道に属しており、モンゴル軍は東方から回り込むようにして後遼政権の拠点である江東方面(現在の平安北道)に進んだと見られるため(池内1943,603-604頁)。
  13. ^ 池内1943,604頁
  14. ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「蒙古太祖、遣元帥哈真及札剌、率兵一万、与東真万奴所遣完顔子淵兵二万、声言討契丹賊、攻和・孟・順・徳四城破之、直指江東。会天大雪、餉道不継、賊堅壁以疲之。哈真患之、遣通事趙仲祥、与我徳州進士任慶和、来牒元帥府曰『皇帝以契丹兵逃在爾国、于今三年、未能掃滅故、遣兵討之。爾国惟資糧是助、無致欠闕』。仍請兵、其辞甚厳。且言『帝命、破賊後、約為兄弟』」
  15. ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「於是、以尚書省牒答曰『大国興兵、救患弊封、凡所指揮、悉皆応副』。沖即輸米一千石、遣中軍判官金良鏡、率精兵一千護送。及良鏡至、蒙古・東真両元帥、邀置上坐、宴慰曰『両国結為兄弟、当白国王、受文牒来則、我且還奏皇帝』」
  16. ^ 元帥の哈真らは両国が同盟関係を結んだ証として、尚書省の牒だけでは不十分で、国王自らの文牒が必要であると判断したとみられる(池内1943,605頁)。なお、高麗側の記録にこの国王自らの文牒が欲しいという要求にどう対応したかは記載されていないが、『元史』巻208列伝95高麗伝に「[太祖]十四年正月、高麗は権知閤門祗候の尹公就・中書注書の崔逸を派遣して和を結び牒文を札剌の行営に送った」とあるのが、この要求に対する高麗側の返答であったとみられる(池内1943,605頁)。
  17. ^ 『高麗史』巻103列伝16金就礪伝,「明年、就礪乃与知兵馬事韓光衍、領十将軍兵及神騎・大角・内廂精卒、往焉。……約詰朝会江東城下」
  18. ^ 『高麗史』巻103列伝16金就礪伝,「去城三百歩而止、哈真自城南門至東南門鑿池、広深十尺。西門以北、委之完顔子淵、東門以北、委之就礪、皆令鑿隍、以防逃逸」
  19. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗]六年春正月辛巳、趙沖・金就礪、与哈真・子淵等、合兵、囲江東城、賊開門出降」
  20. ^ 『高麗史』巻103列伝16金就礪伝,「賊勢窘、四十餘人踰城、降於蒙古軍前、賊魁喊舎王子自縊死。其官人・軍卒・婦女五万餘人、開城門出降、哈真与沖等、行視投降之状。王子妻息、及偽丞相・平章以下百餘人、皆斬於馬前、其餘悉寛其死、使諸軍守之」
  21. ^ 『元史』巻208列伝95高麗伝,「太祖十一年、契丹人金山・元帥六哥等領衆九万餘竄入其国。十二年九月、攻抜江東城拠之。十三年、帝遣哈只吉・札剌等領兵征之。国人洪大宣詣軍中降、与哈只吉等同攻囲之。高麗王奉牛酒出迎王師、且遣其枢密院使・吏部尚書・上将軍・翰林学士承旨趙沖共討滅六哥。札剌与沖約為兄弟。沖請歳輸貢賦」
  22. ^ 池内1943,612-613頁
  23. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「戊寅、留哥引蒙古・契丹軍及東夏国元帥胡土兵十万、囲喊舎。高麗助兵四十万、克之、喊舎自経死。徙其民於西楼。自乙亥歳留哥北覲、遼東反覆、耶廝不僭号七十餘日、金山二年、統古与・喊舎亦近二年、至己卯春、留哥復定之」

参考文献

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  • 元史』巻149列伝36耶律留哥伝
  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年
  • 蓮見節「『集史』左翼軍の構成と木華黎左翼軍の編制問題」『中央大学アジア史研究』第12号、1988年
  • ドーソン著、佐口透訳『モンゴル帝国史平凡社 / 東洋文庫