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藤堂高芬

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藤堂高芬
時代 江戸時代
生誕 天明5年3月5日1785年4月13日
死没 天保11年1月16日1840年2月18日
改名 米蔵(幼名)→高芬
別名 出雲(通称)、蘭卿(字)、景山(号)
主君 藤堂高嶷高兌高猷
伊勢国津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高周、母:種村氏
兄弟 高衡、高茂高芬
正室:長氏、継室:藤堂高崧の娘
高克、高淩、中川政孝、高亮
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藤堂 高芬(とうどう たかしな)は、伊勢国津藩一門藤堂出雲家第9代。久居藩第10代藩主藤堂高衡の弟。国老。儒学者

家系

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藤堂出雲家は、藤堂高虎の異母弟高清に始まり、代々の当主が「出雲」の通称を名乗った。宗家の津藩主5代藤堂高敏で高虎の血統が絶え、高芬の大叔父高治が養子として6代藩主となって以降は、出雲家の血統が本藩及び支藩の藩主となった。 文武に秀でた人物を多く輩出している。

略歴

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天明5年(1785年)3月5日、津藩騎将(番頭)で藩主一門藤堂出雲家7代高周の三男として生まれる。

寛政11年(1799年)8月、出雲家8代の兄高茂が早世したため、15歳で家督と知行7000石を継ぎ騎将(番頭)となる。寛政12年(1800年元服

文化8年(1811年)藩主高兌の命で、上野城代藤堂采女元孝の上席として藩政に参画し、藩主高兌を補佐することとなった。

天保11年(1840年)1月16日死去。享年56。家督は長男高克が相続した。

人物

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幼い頃から学問を好み、藩儒奥田彭(奥田三角孫)や津阪東陽(津坂孝綽)に学んだ。武術は刀槍弓銃術及び馬術の達人で、柔術は実光流を極める。

国老として藩主高兌を助け、藩校有造館の設立に尽力した。学者としては、伯父高文が編纂した藤堂家の藩史「宗国史」を校訂した。

参考文献

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  • 津市教育会編「津市文教史要」
  • 五弓久文編「事實文編」第3部 故番頭敬徳藤堂君碑陰銘幷序