藤原成家
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 久寿2年(1155年) |
死没 | 承久2年6月4日(1220年7月5日) |
官位 | 正三位、兵部卿 |
主君 | 後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇 |
氏族 | 藤原北家長家流(御子左流) |
父母 | 父:藤原俊成、母:美福門院加賀 |
兄弟 | 覚弁、八条院三条、高松院新大納言、上西門院五条、八条院権中納言、八条院按察、成家、建春門院中納言、前斎院大納言、定家、快雲、後白河院京極局、八条院坊門局、前斎院女別当、二条院兵衛督、静快、二条殿青女房 |
妻 | 大宮禅尼 |
子 | 言家、宣家、雅家 |
藤原 成家(ふじわら の なりいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の長男。官位は正三位・兵部卿。
経歴
[編集]後白河朝の保元2年(1157年)叙爵し、仁安元年(1167年)に侍従に任じられる。文治元年(1185年)に右近衛少将に任じられ、正治元年(1199年)に右近衛中将に昇任された。
建仁3年(1203年)に従三位に叙され公卿に列す。承元4年(1210年)に正三位に進み、建暦元年(1211年)には兵部卿に任ぜられる。建保2年(1214年)弟の藤原定家が参議に任ぜられると、翌建保3年(1215年)3月30日に出家。最終官位は兵部卿正三位。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 保元2年(1157年) 3月26日:従五位下(暲子内親王久寿2年大嘗会御給)
- 仁安元年(1167年) 正月12日:侍従
- 仁安3年(1169年) 日付不詳:従五位上
- 嘉応2年(1170年) 正月18日:備後介
- 治承元年(1177年) 正月5日:正五位下(八条院御給)
- 文治元年(1185年) 6月10日:右近衛少将
- 文治2年(1186年) 2月30日:近江権介
- 文治3年(1187年) 正月5日:従四位下(府労)
- 建久元年(1190年) 正月5日:従四位上。正月24日:止近江権介[1]
- 建久2年(1191年) 2月1日:正四位下
- 建久3年(1192年) 正月27日:兼安芸介
- 建久4年(1193年) 2月:服解(母)[1]。6月27日:復任
- 建久7年(1196年) 正月28日:止安芸介[1]
- 正治元年(1199年) 12月9日:右近衛中将
- 正治2年(1200年) 正月22日:兼美濃権介
- 建仁3年(1203年) 10月24日:従三位、止右近衛中将
- 承元4年(1210年) 12月26日:正三位(春華門院御即位御給)
- 建暦元年(1211年) 12月2日:兵部卿
- 建保3年(1215年) 3月30日:出家(兵部卿正三位)
- 承久2年(1220年) 6月4日:薨去