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高冠吾

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高冠吾
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1892年光緒18年)[1]
死去: 1957年
中華人民共和国山東省
出身地: 清の旗 江蘇省太倉州崇明県
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 高冠吾
簡体字 高冠吾
拼音 Gāo Guānwú
ラテン字 Kao Kuan-wu
和名表記: こう かんご
発音転記: ガオ グワンウー
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高 冠吾(こう かんご)は中華民国の軍人、政治家。汪兆銘政権(南京国民政府)の要人の1人である。旧名は、

事跡

保定陸軍軍官学校を卒業後、新聞『民権報』の記者となった。その後、軍人に戻り、広州江防司令部参謀長兼代理司令、広東全省航政局監督、貴州督軍公署参謀長などを歴任した。さらに王天培率いる国民革命軍第10軍の副軍長として北伐に参加している。北伐の最中では、徐州警備司令などをつとめた。

1938年民国27年)3月、高冠吾は、中華民国維新政府に参加した。綏靖部次長、南京市政督弁(後に南京特別市市長)を歴任した。なお、南京特別市市長の地位には、維新政府解散後も引き続き留まっている。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、高冠吾は中央政治委員会委員(以後、4期務める)に任命される。6月には江蘇省政府主席となった。翌年12月、安徽省政府主席に異動する。1943年(民国32年)3月、清郷委員会駐安徽弁事処主任となる。同年冬には、物資調査委員会と新国民運動促進委員会の安徽省主任も兼ねている。同年末に、江西省省長に異動し、軍事委員会委員長駐九江綏靖公署主任も兼任した。その後も、軍事委員会委員、国民政府委員をつとめている。

日本敗北後、高冠吾の動向について詳細はうかがえない。しかし、中華人民共和国建国後も大陸に留まり、1957年山東省で死去した。享年66。

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は1905年光緒31年)としているが、経歴上整合性がとれると思われる『最新支那要人伝』、59頁の1892年を本記事ではとる。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
 ファイル:CJZ1.png 中華民国維新政府
先代
任援道
南京市政督弁
1938年9月 - 1939年3月
次代
(南京特別市長に改組)
先代
(南京市政督弁から改組)
南京特別市長
1939年3月 - 1940年3月
次代
(汪兆銘政権に継続)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(維新政府から継続)
南京特別市長
1940年3月 - 1940年6月
次代
蔡培
先代
陳則民
江蘇省政府主席
1940年6月 - 1943年1月
次代
李士群(江蘇省長)
先代
倪道烺(安徽省政府主席)
安徽省長
1943年1月 - 12月
次代
羅君強
先代
鄧祖禹
江西省長
1943年12月 - 1945年3月
次代
黄自強