厙狄干
厙狄 干(しゃてき かん、? - 553年)は、中国の東魏から北斉にかけての軍人。本貫は善無郡。
経歴
厙狄氏は、厙狄干の曾祖父の厙狄越豆眷の代に、功績により北魏の道武帝から善無郡の西臘汗山地方の百里の土地を受けてそこに住んだが、後に部落を率いて北遷し、朔方郡に家をかまえた。厙狄干は、正光初年に叛乱を掃討した功績で将軍に任じられ、洛陽の宮廷に宿衛した。厙狄干の故郷は寒い土地柄で、自身も暑熱が苦手だったため、冬は洛陽に入り、夏は郷里に帰って過ごした。525年、六鎮の乱が起こると、雲州に逃れ、雲州刺史の費穆により爾朱栄のもとに送られた。528年、軍主として爾朱栄の下で洛陽に入った。
531年、高歓の起兵に従った。532年、爾朱氏を韓陵で破ると、広平県公に封ぜられ、まもなく郡公に進んだ。河陰の戦いでは、東魏の諸将は大勝したが、厙狄干の兵のみが退却した。高歓はかれの旧功を思って、降格させなかった。まもなく太保・太傅に転じた。543年、高仲密が虎牢で叛くと、高歓は高仲密を討ち、厙狄干は大都督として先鋒をつとめた。厙狄干は道中で休息も取らずに急いだため、侯景がこれを見かねて騎兵で追い、厙狄干に供応した。ときに西魏の宇文泰が大軍を率いて洛陽に到着すると、東魏の諸将は決戦をためらって黄河を渡ろうとしなかった。厙狄干が計を決して黄河を渡り、高歓が大軍を率いてこれに続くと、西魏軍を撃破した。凱旋すると定州刺史となったが、行政事務が煩雑だったため、簡略化して自宅に引きこもり、官吏の邪魔にならないようにした。550年、北斉が建国されると、章武郡王に封じられ、太宰に転じた。
厙狄干は高歓の妹の楽陵長公主を妻とし、姻戚として待遇された。東魏の譙王元孝友が公の門で度の過ぎた悪ふざけをしたとき、諸侯は正面からかれを諫めることが出来なかったが、厙狄干は色を成して元孝友を責めて反省させたので、ときの人は善と称した。死去すると、仮黄鉞・太宰の位を追贈された。諡を景烈といった。
厙狄干は書を知らず、「干」の字を署名するとき、逆上るようにこの字を書いたので、ときの人はこれを穿錐といった。
子の厙狄敬伏は、位は儀同三司となって、死去した。さらにその子の厙狄士文が後を嗣いだ。