楊鶴霄
楊鶴霄 | |
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生誕 |
1904年(光緖30年)12月14日[1] 清河北省完県 |
死没 |
1950年? 中華人民共和国 |
所属組織 |
直隷軍閥 国民軍 中華民国空軍 |
最終階級 | 空軍上校 |
楊 鶴霄(よう かくしょう / ヤン・ヘーシャオ、杨鹤霄)は、中華民国空軍の軍人。
経歴
[編集]第15混成旅(旅長:孫岳)幹部訓練班修了[2]。1922年秋に成立した保定航空隊飛行練習生隊に配属[3]。1923年、保定航空教練所が設立されると学生として編入。1924年、第二次奉直戦争で保定航空教練所が国民軍第3軍(軍長:孫岳)に接収された時には、孫岳に進言して国民第3軍航空司令部が編成され、12月に航空教練所は国立保定航空学校に改称された[4][5]。
1925年6月14日、保定航空学校卒業。7月11日、国民第3軍航空司令部航空先遣隊隊長[6]、楊は劉牧群、甄中和、劉義曾の4名とヴィッカーズ VIM(小ビミーと呼ばれた)2機で陝西省に派遣された[7]。
翌1926年2月、卒業生で航空隊が編成され、航空第1隊隊長となった[8][4]。6月、討賊聯軍航空司令部航空第1隊(隊長:趙歩墀)中隊長[9][10]。
国民革命軍に投降後、1927年7月、寧漢戦争で漢口が李宗仁率いる第4集団軍に制圧されると、同航空隊(隊長:劉國楨)隊附[11]。1928年7月、劉國楨が殉職すると隊長に就任し[12]、張宗昌や褚玉璞の残存部隊との戦闘に参加[13]。
1929年9月、航空第3隊(隊長:李泯)副隊長[14]。
1931年8月10日、軍政部航空第4隊隊長[15]。
1933年7月18日、軍政部空軍轟炸(爆撃)第1隊隊長[16]。
1934年、中央航空学校高級班に在校。
1935年9月7日、空軍少校[17]。
1936年の両広事変によって広東空軍が中央空軍に吸収されると、成都轟炸総隊総隊長[18]。1937年9月、広州・天河の駐粤空軍指揮部(指揮官:劉牧群)参謀長。日中戦争勃発後の1938年3月、駐粤空軍指揮部が空軍第2路司令部に改編されると司令官代理[19]。
1939年5月、伊寧教導総隊総隊長。
1943年1月14日、空軍中校[20]。
1943年2月、空軍第1路司令官[21]。同年6月、梁山の戦闘での失策で司令官を解任され、5年の刑を下された[22]。
1946年11月22日、空軍上校[23]。
1948年9月3日、障害により退役[24][25]。大陸が中国共産党の手に落ちた後に殺害されたと伝えられている[24]。
勲章
[編集]出典
[編集]- ^ 軍事委員會銓敍廳. “陸海空軍軍官佐任官名簿 part5” (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 222. 2018年2月27日閲覧。
- ^ 李 1973, p. 68.
- ^ 李 1973, p. 66.
- ^ a b 盧 1974, p. 7.
- ^ 李 1973, p. 69.
- ^ 馬 1994, p. 205.
- ^ 中国航空工业史编修办公室 2013, p. 466.
- ^ 李 1973, p. 77.
- ^ 馬 1994, p. 183.
- ^ 中国航空工业史编修办公室 2013, p. 474.
- ^ 李 1973, p. 98.
- ^ “张建基『北伐战争前后的中国空军』” (PDF) (中国語). 军事历史研究 1990年第2期目. 2016年11月13日閲覧。
- ^ 李 1973, p. 99.
- ^ 盧 1974, p. 36.
- ^ “国民政府広報第845号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年10月12日閲覧。
- ^ “国民政府広報第1186号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年10月12日閲覧。
- ^ “国民政府広報第1840号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年10月12日閲覧。
- ^ “广东航空史略” (中国語). 广州文史. 2017年10月20日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 204.
- ^ “国民政府広報渝字第536号(民国32年1月16日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月12日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 261.
- ^ 文闻 編 (2006). 旧中国空军秘档. 中国文史出版社. pp. 255
- ^ “国民政府広報第2699号(民国35年12月13日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月12日閲覧。
- ^ a b 李 1973, p. 150.
- ^ “総統府広報第91号(民国37年9月3日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月12日閲覧。
- ^ “国民政府広報第760号(民国20年4月30日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2019年11月24日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2648号(民国35年10月14日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月10日閲覧。
参考
[編集]- 马毓福編著 (1994). 1908-1949中国军事航空. 航空工业出版社
- 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部
- 李天民 (1973). 中國航空掌故. 中國的空軍出版社
- 中国航空工业史编修办公室 (2013). 中国近代航空工业史(1909-1949). 航空工业出版社. ISBN 978-7516502617
- 奚紀栄、武吉雲 (2003). “抗戦前中国航空隊史略(上)”. 軍事歴史研究 (国防大学国家安全学院) 3: 108-122 2019年6月19日閲覧。.
外部リンク
[編集]- “中央航空学校同学録-楊鶴霄” (中国語). 浙江档案网. 2017年10月20日閲覧。
軍職 | ||
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先代 楊官宇 |
航空第4隊隊長 第2代:1931.8.10 - 1933.7.17 |
次代 張廷孟 |
先代 なし |
空軍第2路司令官 代理:1938.3 - 4 |
次代 劉牧群 |
先代 なし |
伊寧教導総隊総隊長 初代:1939.5 - 1941? |
次代 李瑞彬 |
先代 張有谷 |
空軍第3路司令官 第6代:1941.5 - 1943.2 |
次代 王叔銘 |
先代 劉牧群 |
空軍第1路司令官 第6代:1943.2 - 6 |
次代 張廷孟 |