オブジェクティフ49
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オブジェクティフ49(オブジェクティフキャラントヌフ、objectif 49、1948年 - 1950年)は、フランス・パリにかつて存在したシネクラブ。「ヌーヴェルヴァーグのゆりかご」となった集団として知られる。
概要・来歴
- 1948年、設立。会長はジャン・コクトー。
- 主な設立メンバーは、ジャーナリストからは『レクラン・フランセ』誌に執筆していたアンドレ・バザンとアレクサンドル・アストリュック、『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』誌主宰のジャン=ジョルジュ・オリオールとジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、『シネ・ディジェスト』誌主宰のジャン=シャルル・タケラ、映画作家からロベール・ブレッソンとルネ・クレマン、作家からはクロード・モーリアック、そしてシネマテーク・フランセーズからジャン・グレミヨンの協力者となったピエール・カスト。のちにフランソワ・トリュフォーはバザンに紹介されて加入、ジャン=リュック・ゴダール、シュザンヌ・シフマン、ジャン=マリー・ストローブらの10代20代の若者も加入。
- 当時、エリック・ロメールが主宰していた「シネクラブ・デュ・カルチェ・ラタン」との交流があり、オブジェクティフ49のメンバーも毎週木曜日の上映会に参加していた。同シネクラブは、1950年5月、『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を創刊するが、11月には廃刊して『カイエ・デュ・シネマ』創刊に合流する。
- 1949年7月29日 - 8月5日、初めての「作家の映画」の祭典である「呪われた映画祭」を組織し、ビアリッツで開催した。29歳のロメール、18歳のゴダール、17歳のトリュフォーもこれに参加。
- 1950年4月2日、オリオールが交通事故で死去。彼の死とともに『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』廃刊、ブレッソンがオブジェクティフ49脱退。
- 1950年、オリオールを失ったまま第二回呪われた映画祭を開催後、オブジェクティフ49は空中分解。
- 1951年4月、バザン、ヴァルクローズ、ジョゼフ=マリー・ロ・デュカ(ジュゼッペ・マリア・ロ・デュカ)らによって『カイエ・デュ・シネマ』創刊。
呪われた映画祭
- 1949年7月29日 - 8月5日、ビアリッツで開催。
- 主催者は、コクトー、バザン、オリオール、ピエール・ブロンベルジェ、ドニオル=ヴァルクローズら。
- 賛同者は、グレミヨン、ブレッソン、クレマン、レイモン・クノー、モーリアックら。
- 下記16本を含めた20本が上映された。
- ロベール・ブレッソン「ブーローニュの森の貴婦人たち」
- ジャン・グレミヨン「高原の情熱」
- ジョン・フォード「果てなき船路」
- ジャン・ヴィゴ「アタラント号」完全版
- ジャック・タチ「のんき大将脱線の巻」
- オーソン・ウェルズ「上海から来た女」
- ルネ・クレマン「鉄路の闘い」
- ジャン・ルノワール「南部の人」
- ロバート・モンゴメリー「湖中の女」
- テイ・ガーネット「郵便配達は二度ベルを鳴らす」
- アラン・レネ「ゲルニカ」
- ジャン・ヴィゴ「新学期・操行ゼロ」
- ジャン・ルーシュ「悪霊たちのダンスへのイニシエーション」
- ニコラス・レイ「夜の人々」
- ルキノ・ヴィスコンティ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」
- ルチアーノ・エンメル「ゴヤ 戦争の災害/聖イシドーロ祭」撮影マリオ・バーヴァ
- ケネス・アンガー『花火』
- このラインナップの思想が、のちの『カイエ』あるいはヌーヴェルヴァーグの作家たちに受け継がれることになる。
- コンペティションがあり、ルーシュ『悪霊たちのダンスへのイニシエーション』がグランプリを受賞[1]、詩的映画部門のグランプリは、19歳のケネス・アンガーが撮った『花火』。
- 1950年、第二回を開催、終焉を迎える。