山名教之
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時代 | 室町時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 文明5年1月13日(1473年2月10日) |
改名 | 鶴房(幼名)→教之 |
別名 | 六郎(通称) |
戒名 |
禅栖院殿寿嶽源崇大禅定門 瑞仙寺殿相州瑞孝大禅定門 |
官位 | 兵部少輔、相模守 |
幕府 | 室町幕府伯耆・備前守護 |
氏族 | 山名氏 |
父母 | 父:山名熙之 |
子 |
豊之、豊氏、之弘、元之、小太郎 天龍寺喝食等潤 |
山名 教之(やまな のりゆき)は室町時代の守護大名。伯耆・備前守護。
山名熙之の子として生まれる。幼名は鶴房、のち室町幕府第6代将軍足利義教より偏諱を受けて教之と名乗る。
父・熙之が家督を継承しなかった(継ぐことなく早世したか)ため、祖父の山名氏之から直接家督を譲られ、幼くして伯耆守護の座に就く。家督の譲渡時期は不明だが、応永34年(1426年)5月には「山名鶴房」として文献に現れ、永享10年(1438年)8月には兵部少輔として見える。それ以降、40年余りに渡って伯耆国に君臨、国人衆を支配体制に組み込み、強固な地盤を築いた。
嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱において同族の山名持豊(宗全)・山名教清と共に赤松満祐の領国に攻め入り、満祐の首を挙げた功績で教之は恩賞として備前が与えられ、伯耆・備前2か国の守護となった。享徳2年(1453年)頃に長男の豊之に家督を譲り、応仁の乱で宗全に従い西軍の部将として戦ったが、赤松政則に備前を奪われた。また、文明3年(1471年)に豊之が伯耆で殺害されている。
文明5年(1473年)死去。次男の豊氏は同族の因幡守護山名熈幸の養子になっていたため、3男の之弘が伯耆守護職を継いだが、文明8年(1476年)に赤松政則の支持を得た4男の元之が伯耆守護となり、山名政豊の支援を受けた孫の政之と争った。
参考文献
[編集]- 高橋正弘『因伯の戦国城郭 通史編』1986年
- 倉吉市『新編倉吉市史 第二巻 中・近世編』1995年
- 岡村吉彦「伯耆山名氏の権力と国人」(鳥取地域史研究会『鳥取地域史研究 第3号』2001年)