黒田綱之

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黒田綱之

黒田 綱之(くろだ つなゆき、承応4年3月8日1655年4月14日) - 宝永5年7月6日1708年8月21日))は、筑前福岡藩の世嗣。第3代藩主・黒田光之の長男。母は小笠原忠真の娘・宝光院。幼名は万千代。初名は長良(ながよし)。官位は従四位下、筑前守。死後は福岡に祟りをなす神として恐れられ、幹亮権現として祀られた。

生涯[編集]

寛文9年(1669年)、元服し叙任。将軍徳川家綱より偏諱を授かって長良から綱之に改名するが、延宝3年(1675年)の光之の帰国後、突如として江戸から福岡に呼び戻されて廃嫡され、剃髪得度させられたうえ蟄居を命じられる。代わって、弟の長寛(綱政)が嫡子となった。

廃嫡・蟄居の理由としては、綱之はその性格粗野かつ奔放であり、しばしば酒宴を催しては家臣と酒を飲んで騒ぐなどして、幕閣要路からの評判が大変に悪かったためという。廃嫡に際して立花実山をはじめ多くの家臣が異を唱えているが、これが長嫡子を廃することで生まれる混乱の危険を危惧したものか(跡継ぎに関する騒動は改易など重い処分の対象になった)、乱行が言いがかりであったためかは、定かではない。その後はそのまま寺に入って僧となり、宝永4年(1707年)の光之の死に際しての遺言によって処分が解かれるまで、約30年の歳月を禅寺で過ごした。宝永5年(1708年)、54歳で死去した。墓所は福岡市中央区にある大涼山少林寺。

廃嫡・出家後の書として『泰雲』が現存する。なお、福岡市内の屋形原の地名は、綱之の居館の在所であったことにちなむものである。

第二黒田騒動とその後[編集]

光之と綱之の対立、綱之の廃嫡、長寛(黒田綱政)の立嫡という一連の事件は、綱之の祖父・黒田忠之時代の黒田騒動になぞらえて、第二黒田騒動と呼ばれることもある。

長男・綱之を廃嫡し、三男・綱政を嫡子とした光之であったが、その期待は叶わず、綱政もまた父時代の側近をすべて排除して藩主権力の強化に努めたため、この後光之・綱政父子にも対立が生じることとなる。