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黄鎬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

黄 鎬(こう こう、生年不詳 - 1483年)は、明代官僚軍人は叔高。本貫福州府侯官県

生涯

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1445年正統10年)、進士に及第した。1447年(正統12年)、都察院に試用された。法律に明るく習熟していたことから、御史に任じられた。

1449年(正統14年)、貴州巡按をつとめた。苗族が反乱を起こし、道を塞いでいた。靖遠伯王驥らが麓川から帰還したが、軍に紀律なく、苗族がその背後から襲撃し、官軍は大敗した。黄鎬は平越に赴き、反乱軍と遭遇して死闘を繰り返した。夜間に平越に入城し、反乱軍がこれを包囲した。平越城を放棄しようという意見もあったが、黄鎬は「平越は貴州の咽喉にあたり、平越なくして貴州はない」といって、諸将とともに固守した。ひそかに竹筒の中に上奏文を入れ、現地の人間を募って朝廷に援軍を求めに行かせ、あわせて王驥らの敗戦を弾劾した。1450年景泰元年)、景泰帝が保定伯梁珤らに命じて合州湖広の軍を率いて救援させると、平越の包囲はようやく解けた。平越城は包囲を受けること9カ月、城兵は草の根を掘り弩や鎧を煮て食べ、死者があい枕する惨状であった。城を守り切ったのは、黄鎬の功績が大であった。黄鎬はさらに1年、巡按貴州の任にとどまった。長らくを経て広東僉事に転じ、さらに浙江僉事に転じた。

1466年成化2年)、黄鎬は広東左参政に抜擢された。高州雷州廉州の海賊を討って平定した。広西左布政使に転じた。1472年(成化8年)、右副都御史となり、総督南京糧儲をつとめた[1]1475年(成化11年)、吏部右侍郎に転じた。1476年(成化12年)、吏部左侍郎に進んだ[2]1480年(成化16年)、南京戸部尚書に任じられた。1483年(成化19年)、致仕した。道中に死去した。太子少保の位を追贈された。は襄敏といった。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻36
  2. ^ 王世貞弇山堂別集』巻54

参考文献

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  • 明史』巻157 列伝第45