高田栄作

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高田 栄作(たかだ えいさく、文久3年12月7日1864年1月15日)- 1972年1月31日)は、日本の長寿者。死去した時点で日本における男性としての最高齢者であった[1]

経歴[編集]

文久3年12月7日1864年1月15日)、現在の新潟県に生まれる[1]。家は農家だったが、副業として漁業も営んでおり、高田はその両方で働いた[2]。小学校卒業後内務省に入省し、富山県長野県などの土木事務所に勤務する[1]。40歳ごろ虫垂炎を患う[2]。少なくとも2回結婚をしており、男2人(長男は1967年までに死去)、女1人の子供と1人の孫に恵まれた[2]。再婚した妻は79歳で死去した[2]。60歳頃に退職し、その後は長野県の山で駅長を務めたり、寺院に住んだりした[1]。また、退職後も農業や漁業の労働をした[2]1939年兵庫県神戸市に移住し、90歳まで畑仕事を続けた[1]1967年の時点では神戸市東灘区住吉町鬼塚に居住していた[2]1971年9月15日、兵庫県知事の坂井時忠と神戸市長の宮崎辰雄から表彰を受け、「あと10年は生きる」と語ったが、翌1972年1月31日22時頃、神戸市東灘区住吉東町の自宅で老衰のため108歳で死去した[1]。葬儀は同年2月2日13時から自宅にて行われ、喪主は次男が務めた[1]

人物[編集]

仏教徒であり、囲碁書道謡曲を趣味としていた[2]。1967年時点では健康に大きな問題はなく、野菜や果物、魚を好んで食べており、間食はしなかった[2]。物事にくよくよしないことを長寿の秘訣としており[1]、20時に寝て7時に起きる規則正しい生活を送っていたが、便秘(便通は7日に1回)により下剤を服用していた[2]。時々入浴もしていた[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 『読売新聞』1972年2月1日夕刊8面
  2. ^ a b c d e f g h i j 大平陽介『われら百歳』家の光協会、1967年 170ページ、171ページ