飯田豊二

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九曲堂駅横の飯田豊二記念碑

飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年明治7年) - 1913年大正2年)6月10日)は静岡県出身の鉄道技術者。日本統治時代台湾総督府鉄道部所属の技師(1897年 - 1913年)。

経歴[編集]

静岡県沼津市で父飯田弘と吉田姓の母の間に生まれる。東京工手学校(現在の工学院大学)に進学し、土木工学を修めた[1]

卒業後の1897年(明治30年)、台湾総督府鉄道部の職員となり、1900年(明治33年)に臨時台湾鉄道敷設部(総督府鉄道部の前身)技師長だった長谷川謹介の依頼により技師として阿里山森林鉄路建設の事前調査に従事[2]したほか、打狗出張所工務掛長に昇進。 翌1911年総督府が推進する鳳山庁(現在の高雄市鳳山区)から阿緱庁(現在の屏東市)に至る鉄道路線(現在の屏東線)の建設事業で九曲堂派出所の主任として、当路線で最高難度といわれた[1]下淡水渓鉄橋(現在の高屏橋)の架橋工事に携わった。 工事期間中、何度も豪雨や増水に見舞われ、飯田は疲労の蓄積から病に倒れてしまい、鉄橋の完成を目前にした1913年(大正2年)6月10日、台南医院でこの世を去った[1][3]。 友人の小山三郎らによって遺墨が作られ、九曲堂駅横に埋められるとともに、総督府がその功績を称えるべく、資金を集めて記念碑が建立された[1][3][4]。また、鉄橋自体は1913年末に竣工した。

その他[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d (繁体字中国語)蔡龍保 (2012年10月). 《推動時代的巨輪:日治中期的臺灣國有鉄路》 (四版一刷 ed.). 台灣書房. pp. 37-38,315. ISBN 978-986-6318-78-8. 
  2. ^ [1]
  3. ^ a b (繁体字中国語)飯田豊二”. 臺灣記憶. 2013年7月11日閲覧。
  4. ^ Japan On the Globe(591) 国際派日本人養成講座 国柄探訪:台湾人と日本人が共に生きた日々 台湾に残る日本統治時代の遺産を辿る。
  5. ^ 明治時代沼津に居た兄弟二人の鉄道マン(飯田耕一郎と豊二)①
  6. ^ (フォーカス台湾)日本時代に供用の鉄道橋が遊歩道にリニューアル/台湾・高雄
  7. ^ (繁体字中国語)高屏鐵橋改建天空步道 日工程師後代見證

関連項目[編集]