阿保人上

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阿保人上
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 不明
死没 延暦20年8月15日801年9月26日
官位 正五位下陰陽頭
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 建部(または健部)朝臣阿保朝臣
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阿保 人上(あぼ の ひとかみ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族氏姓は建部(または健部)のち建部朝臣阿保朝臣官位正五位下陰陽頭

経歴[編集]

円仁の『入唐求法巡礼行記』の開成5年(840年)3月7日条に、登州開元寺の北壁に墨書された日本国使の名前の中に「録事正六位上建玄感」があり、この「建玄感」は人上のことと推定される。そこから、、天平宝字3年(759年)在中の遣唐大使藤原清河を帰国させるための迎入唐使が派遣されるが、人上は録事としてこれに従い渡唐したことが分かる[1][2]

天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に加勢したらしく、乱後に従五位下に昇叙されると共に、公姓から臣姓に改姓している。この時、因幡掾称徳朝ではさらに図書助を務め、この間の神護景雲2年(768年内位の従五位下に叙せられた。

光仁朝では図書助・勅旨員外少輔と京官を歴任し、宝亀9年(778年)には第16次遣唐使と共に来日した唐使に対する労問を左少弁藤原鷹取と共に行っている。

天応元年(781年)勅旨少輔に昇格したのち、翌天応2年(782年)武蔵介、延暦5年(786年)武蔵守と桓武朝初頭は武蔵国司を務め、この間の延暦3年(784年)には従五位上に叙せられると共に、以下言上を行い建部朝臣から阿保朝臣に改姓を許されている。

私たちの始祖である息速別皇子伊賀国阿保村に居住した。その後明日香朝廷(允恭朝)に及んで、皇子の四世孫である須祢都斗王に対して居住地に因んで阿保君姓が与えられた。その子孫である意保賀斯は武芸が朋輩に秀で、後代の模範となるべく、当時の長谷旦倉朝廷(雄略朝)から健部君姓を与えられた。これは功績を顕彰する恩恵の意味であり、居住地に因む賜姓とは異なり常に継続すべきことではない。ついては、元の正しい氏姓である阿保朝臣姓を授かりたい。

延暦9年(790年大学頭として京官に復すと、延暦15年(796年)陰陽頭と桓武朝半ばは京官を務める一方、播磨守も兼帯した。延暦16年(797年)正五位下に至る。延暦20年(801年)8月15日卒去。

官歴[編集]

注記のないものは『六国史』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本人名大辞典』
  2. ^ 佐伯有清「入唐求法巡礼行記にみえる日本国使」『日本古代の政治と社会』
  3. ^ 『大日本古文書』5-525
  4. ^ 鈴木真年『諸系譜』第15冊,阿保朝臣

参考文献[編集]

  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 『日本人名大辞典』講談社、2001年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年

関連項目[編集]

  • 高元度藤原清河を日本に帰国させるための第13次遣唐使の「迎入唐大使使」(入唐大使を迎える使者)で。この船で人上は唐に渡っている。