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野呂景義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
のろ かげよし
野呂 景義
「釜石製鉄所七十年史」より
生誕 1858年
尾張国
死没 1923年9月8日
墓地 瑞輪寺(台東区)
国籍 日本の旗 日本
出身校 開成学校
帝国大学採鉱冶金学科
フライベルク鉱山大学
職業
肩書き 工学博士
釜石鉱山田中製鉄所 顧問
親戚 氏家寿子(日本女子大学教授)
栄誉
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野呂 景義(のろ かげよし、1858年 - 1923年)は愛知県出身の冶金学者東京帝国大学の教授として多くの後進を育て、日本近代製鉄の礎を築いた田中製鉄所や八幡製鉄所に技術指導を行う。日本鉄鋼協会の初代会長も務め「日本の冶金学の父」と呼ばれる。

来歴

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生い立ち

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尾張藩士、野呂伊三郎の二男[2]。1858年(安政5年[注釈 1])に後の名古屋市橦木町で生まれる[3]。1874年(明治7年)に愛知英語学校へ入り、1877年(明治10年)上京し開成学校予科[4]を経て1882年(明治15年)帝国大学理学部採鉱冶金学科を卒業[注釈 2]。卒業後直ちに母校の助教授に任ぜられ、ドイツ人の採鉱冶金教授のクルト・ネットーの下で学生を指導する傍ら冶金学の研究を続けた[5]

1885年(明治18年)5月に私費で渡欧し、9月より英国ロンドン大学機械工学電気工学を学ぶ。翌1886年(明治19年)4月にドイツへ移るとフライベルク鉱山大学: Bergakademie Freiberg、ネットーの母校)でアドルフ・レーデブーア(Adolf Ledebur)のもと更に冶金学を学び1888年(明治21年)7月に卒業。師の紹介でクルップシュナイダー、ホイットワース、アームストロングなど各国の造兵及び製鉄工場を訪ねては自ら職工の実務を体験したとされる[6]。1889年(明治22年)4月の帰国後すぐに東京帝国大学工科大学の教授に就任。今泉嘉一郎や服部漸、香村小録、俵國一などの後進を育てた。また1890年(明治23年)、愛知教育博物館の設立に際し義援金を寄付している。1891年(明治24年)8月、文部省より工学博士号授与。

製鉄所への関わり

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景義は農商務省の技師を兼ね、松方正義榎本武揚に協力して、官営製鉄所建設計画や製鉄工業化試験に尽力したが、東京市水道鉄管事件に巻き込まれて、1896年以降は一切の公職を辞している。

1880年に岩手県で官営の釜石製鉄所が操業を開始したが、木炭不足や技術力不足などを原因として約2年で閉鎖。その後、民間より田中長兵衛が再建に手を挙げて番頭格の横山久太郎を釜石に派遣。苦難の末、銑鉄の生産に成功すると、1887年に釜石鉱山田中製鉄所を設立した。1894年(明治27年)には景義が顧問として迎えられ、日本初のコークス炉を利用した銑鉄生産に成功している。

1895年製鉄事業調査会が発足し、牧野毅などと共に調査委員に任命されたが、国は早急な計画で本格的な製鉄所の開始を期待したが、景義は地道な技術による開発を主張したため、調査会からは追い出された。

1901年(明治34年)2月に官営八幡製鉄所がドイツ技術で創業を開始したが、その第1高炉の火入れの結果は惨憺たるもので、翌々年4月にコークス炉の完成を待っての第2の火入れも17日で停止せざるを得ない有様であった。景義が呼び出されて、様々な調査と改良が行なわれて、1904年7月に第3の火入れが行なわれて、第1高炉は1910年6月まで連続稼働し、2140日に亘って出銑を続けた[7]

鉄鋼協会の設立

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1914年3月、景義、今泉嘉一郎、香村小録、俵國一の4名で会合し、従来は日本鉱業会の一部門だった鉄鋼を分離独立させ協会設立する件について話し合われる。1915年(大正4年)2月、上記4名に服部漸を加えた5名が主唱者となり、700名を超える会員を集めて日本鉄鋼協会を設立。景義は初代会長に就任した[8]。同協会は功労者を毎10年毎に表彰してきたが、創立60周年時(1975年)に「野呂賞」と名付け毎年表彰することを決定している[9]

景義は1922年3月の肺炎以来、予後で病床にあったが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災・烏森にあった日本鉄鋼協会の会館が壊滅した悲報に接する中、数日後の9月8日に永眠。葬儀は下谷区の瑞輪寺で執り行われ、門弟総代として香村小録が弔辞を読んだ[10]

家族・親族

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  • 野呂伊三郎(父)- 旧名古屋藩(尾張藩)年寄組頭。1897年(明治30年)6月28日没。
  • 野呂正恂(養継嗣)- 妻、そして景義の孫2人あり[2][11]
  • 義子(長女)- 1900年(明治33年)2月6日病没[12]
  • 氏家寿子(姪)- 1898年(明治31年)2月7日生まれ。景義の兄・野呂景武の長女。日本女子大学教授、日本家政学会会長。夫の氏家隆武(1895年生)は早大理工学部を経て八幡製鉄所に入り、特許局技師に転じた[13][14]

脚注

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注釈

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  1. 飯田賢一が著し1987年に発行された「人物・鉄鋼技術史」に1854年(安政元年)8月26日生まれとあるが、より古い(明治から昭和初期の)複数の資料[2][3][1]にある安政五年生まれを採用。生まれ月は旧暦八月、十一月、十二月など資料により様々なため割愛。生まれた日によっては生誕年が西暦1859年の可能性もある。
  2. 採鉱冶金学科は当初理学部であり、1885年に工学科と共に、新設された工芸学部に移った。そのため景義は卒業時に理学士の学位を取得している。

出典

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  1. 1 2 『学位録』(明治28年)文部省専門学務局、33頁。NDLJP:779189/17
  2. 1 2 3 『大日本博士録』(第5巻)発展社出版部、1930年9月。NDLJP:1136216/280
  3. 1 2 花房吉太郎、山本源太 編『日本博士全伝』博文館、1892年、348頁。NDLJP:992465/186
  4. 飯山正秀 編『成功名家列伝 1』国鏡社、1908年、489頁。NDLJP:778190/326
  5. 日本大百科全書(ニッポニカ)『野呂景義』 - コトバンク
  6. 三枝博音記念論集編集委員会 編『世界史における日本の文化』第一法規出版、1965年、685-686頁。NDLJP:2983875/346
  7. 野呂景義・近代鉄鋼技術の父 (Japan Kyushuu Tourist)
  8. 『日本鉄鋼協会五十年史』日本鉄鋼協会、1965年、37頁。NDLJP:2510695/26
  9. 野呂 景義 小伝(日本鉄鋼協会)
  10. 飯田賢一『人物・鉄鋼技術史』日刊工業新聞社、1987年1月、94-95頁。NDLJP:12048523/55
  11. 『鉄鋼界』20 (2)、日本鉄鋼連盟、1970年2月、89頁。NDLJP:3339155/46
  12. 大植四郎 編『明治過去帳:物故人名辞典』(新訂)東京美術、1988年11月、586頁。NDLJP:13213578/383
  13. 新岩手日報社 編『岩手県大鑑』歴史図書社、1978年1月、時の人 27頁。NDLJP:9569834/231
  14. 『人事興信録』(第17版 上)人事興信所、1953年、う25頁。NDLJP:3025541/182


関連項目

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外部リンク

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