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路温舒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

路 温舒(ろ おんじょ、生没年不詳)は、前漢の人。長君鉅鹿郡鉅鹿県東里の人。漢の宣帝の頃の人。

略歴

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路温舒は祖父より天文や暦を学んだ。父は里の門の担当で、路温舒に羊を養わせた。路温舒は沢の蒲を切って簡にし、書を伝写して勉強した。その後、獄の小吏となり、律令を学んで獄史に転じ、県では疑わしい事があると皆彼に訊くようになった。太守は彼を抜擢して決曹史とした。

路温舒は更に『春秋』を学んで大義に通じるようになった。孝廉に推挙されて山邑県丞となったが法に触れて罷免され、また郡吏となった。

元鳳年間、廷尉の李光[1]が彼を奏曹掾にし、廷尉史を兼ねた。

そんな折、昭帝が死亡して昌邑王劉賀が即位したが廃位され、宣帝が即位した。路温舒はそこで上書し、徳を尊び刑罰を緩めるよう提案した。宣帝はその発言を良く感じ、広陽私府長に任命した。

内史が路温舒を文学高第に推挙し、右扶風丞となった。当時、匈奴の使者となる大臣を選ばせていたところであったが、路温舒は上書して匈奴の使者となることを自ら願い出た。その件は度遼将軍范明友太僕杜延年が担当して彼に事情を尋ねたが、元の官に帰された。しばらくして臨淮太守となり、優れた治績を挙げ、在官のまま死亡した。路温舒の子孫は皆大官となった。

路温舒は祖父から学んだ天文・暦の知識より漢の厄が「三七の間」にあると思い、封事を奉ってそれをあらかじめ戒めた。同じ事は成帝の時代に谷永も発言した。そして漢が興ってから210年後(3×7=21)に平帝が死亡した。王莽は漢に取って代わろうと考えると、その言葉を世に出した。

脚注

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  1. ^ 『漢書』巻19下 百官公卿表下。原文は「廷尉光」。張晏は解光と比定したが、当時の廷尉は李光である。なお、解光は哀帝時代の人で、廷尉を歴任したこともない。

参考文献

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