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諏訪部定軌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
諏訪部 定軌
時代 江戸時代中期
生誕 貞享4年(1687年
死没 寛延3年11月28日1750年12月26日
改名 諏訪部勘五郎、佐五郎、文右衛門[1]
戒名 日深
墓所 江戸下谷法養寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家重
氏族 清和源氏満快流諏訪部氏[1]
父母 諏訪部定直(実父)、定堅(養父)
兄弟 諏訪部高寛、定軌
諏訪部定堅娘
諏訪部堅雄定年
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諏訪部 定軌(すわべ さだのり[1])は江戸時代中期の旗本江戸幕府御召の御馬預。

経歴

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江戸幕府旗本諏訪部定直の次男として生まれ、その従兄弟定堅の養子となった[1]元禄14年(1701年)3月4日15歳で初めて徳川綱吉御目見した[1]宝永4年(1707年)11月25日父の見習となり[1]、宝永6年(1709年)12月25日廩米150俵を賜った[2]正徳2年(1712年)7月2日父の跡を継ぎ[1]江戸南部藩留守居岸半左衛門等と折衝して御買馬についての指示、上納馬の検分等を行った[3]

享保7年(1722年)4月日光社参に供奉した[2]。享保10年(1725年)3月27日小金原御鹿狩に参加し、4月3日時服2領を賜った[2]。同月16日小次郎(徳川宗武)の馬稽古に際し手綱を任され、19日時服を賜った[2]。享保11年(1726年)3月27日小金原御鹿狩に参加し、4月1日時服2領を賜った[2]。享保12年(1727年)12月25日節分に当たり、仙台藩・南部藩との事務に勉励したとして銀30枚を賜った[4]。4月徳川吉宗の日光社参に供奉した[1]。享保16年(1731年)3月21日小五郎(徳川宗尹)の馬稽古で手綱を任され、12月4日時服を賜った[2]

元文3年(1738年)2月9日、馬預・馬方に病人が続出する中で職務に勉励したとして金3枚を賜った[2]。元文5年(1740年)8月配下の御口之者・馬乗等が金蔵普請疑獄事件に関与して吟味を受けた[5]延享2年(1745年)11月徳川家重将軍宣下を祝して諸藩から馬が献上され、11日その事務に当たったとして子堅雄と共に褒銀を賜った[6]。延享3年(1746年)60歳となり、遠方御成の御供・御召馬の下乗りを子定年等に代理させることを願い出た[7]寛延3年(1750年)8月26日致仕し、11月28日64歳で死去し[1]下谷法養寺に葬られた[2]。法名は日深[1]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 寛政譜.
  2. ^ a b c d e f g h 略譜.
  3. ^ 佐藤 1918, pp. 168–183.
  4. ^ 有徳院実紀, p. 904.
  5. ^ 若林 1984, pp. 126–127.
  6. ^ 惇信院実紀, p. 402.
  7. ^ 若林 1984, p. 123.

参考文献

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  • 堀田正敦「諏訪部」『寛政重修諸家譜』 巻第346。NDLJP:2577375/43 
  • 「諏訪部」『略譜』。諏訪・諏訪部 - 国立公文書館デジタルアーカイブ。 
  • 林述斎、成島司直「有徳院殿御実紀巻25」『徳川実紀』 第5編、経済雑誌社、1904年6月。NDLJP:1917878/460 
  • 林述斎、成島司直「惇信院殿御実紀巻2」『徳川実紀』 第6編、経済雑誌社、1904年8月。NDLJP:772970/207 
  • 佐藤陽次郎『南部馬史』南部馬史発行所、1918年12月。NDLJP:957665/116 
  • 若林喜三郎本多康彦家襲蔵若年寄関係文書について」『大手前女子大学論集』第18巻、Otemae Women's University、1984年11月、115-131頁、CRID 1050845762664961024ISSN 02859785NAID 110000046239