覚栄

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覚栄(かくえい、? - 元和8年(1622年)10月19日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の僧侶。遍照院二位公盛雅とも称す。

生涯[編集]

覚栄の出自に関しては不明な点が多い。『妙寺村氏人中過去帳』によると、京都市伏見区竹田の生まれという。

覚栄は寺社の造営・修造を得意とした木食応其の下、実務面を一手に引き受けていたという。安楽寿院に伝わる『摧薪録』によると、覚栄の事績は方広寺大仏殿の造営から始まる。天正16年(1588年)頃、豊臣秀吉の命によって大仏殿の造営が本格化し、秀吉は木食応其寺沢広政に造営奉行を命じた。応其は覚栄が有能であることを知って、自分に代わって造営を任せたという。また、文禄末年から慶長年間にかけて、醍醐寺東寺安楽寿院根来寺三船神社の復興、また興山寺の建立に奔走したという。文禄5年(1596年)の慶長伏見地震により安楽寿院の一部も崩壊したが、慶長9年(1604年)には豊臣秀頼の命を受け、安楽寿院の復興に尽力した。 慶長5年(1600年)、応其が高野山を下山した以降は、安楽川荘を中心に興山寺第2世として活動した。

人物[編集]

  • 醍醐寺の座主を勤めた義演は『義演准后日記』のなかで、覚栄を「上人執事」と記しており、応其配下の最も重要な人物として認識していたことがわかる。
  • 慶長3年(1598年)8月22日、方広寺大仏殿が落慶した際には、覚栄は褒美として上人位が与えられ、「慶賛ノ列衆」となったという。

参考文献[編集]

和歌山県立博物館編 『特別展「特別展 京都・安楽寿院と紀州・“あらかわ”―木食応其を支えた僧・覚栄の事績を中心に―」』 和歌山県立博物館、2010年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]