薬師寺国盛

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薬師寺 国盛
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 享禄4年6月4日1531年7月17日
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薬師寺 国盛(やくしじ くにもり)は、戦国時代武将細川氏(京兆家)の家臣。通称は与次・三郎左衛門尉。

摂津国守護代(下郡)[注 1]

概要[編集]

薬師寺元一の子。国長の弟。幼名は岩千代丸。

薬師寺氏が務めていた摂津国守護代は、薬師寺長盛元長の弟)の子である元一・長忠兄弟の時代に上郡・下郡に分割されることになった。ところが、永正元年(1504年)9月、元一が細川政元に反乱を起こした結果、破れて自殺し、長忠が摂津一国の守護代となった[2]。永正4年(1507年)6月、細川澄之を推す勢力は細川政元を暗殺するが、その約40日後、細川高国らに主要人物を殺され、このとき、長忠も討たれた[3]永正の錯乱)。

永正5年(1508年)、細川高国の政権が成立する[3]。高国が細川氏の家督を得ると、元一の遺児である万徳丸・岩千代丸の兄弟が召し出され、元一・長忠兄弟の例に倣って摂津を分け与えられた。やがて、万徳丸は与一→九郎左衛門国長、岩千代丸が与次→三郎左衛門国盛と称したのは、元一・長忠の先例に随ったと考えられている[4]

細川晴元の攻勢が強まると、享禄元年(1528年)に薬師寺兄弟は一度は晴元に降伏した。

享禄3年(1530年)、国盛は、浦上村宗、細川高国らに富松城を落とされ、大物だいもつ城(尼崎)に逃れた[5]。しかし、同城も攻められ、降伏したため、晴元の人質となっていた国盛の7歳になる子が釈迦堂で殺されたという[6]

享禄4年(1531年)4月、高国と共に京に侵攻したが、山崎において、かつての主君・晴元の武将である三好元長に敗北し、同年6月、大物崩れで敗死したとされる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 横尾は、この時期の守護代は国長であり、これと管轄地域が重なるため、与次(国盛)を守護代とはみなせず、小守護代であると推定している[1]

出典[編集]

  1. ^ 横尾 1980, pp. 304–306, 309.
  2. ^ 横尾 1980, pp. 302–304.
  3. ^ a b 横尾 1980, p. 304.
  4. ^ 馬部、2018年、P171-172.
  5. ^ 岡山県 1991, pp. 168–169.
  6. ^ 岡山県 1991, p. 169.

参考文献[編集]

  • 横尾國和「摂津守護代家薬師寺氏の動向と性格」『國學院大學大学院紀要——文学研究科——』第12輯、国学院大学大学院、1980年、NDLJP:4422013 (要登録)
  • 岡山県史編纂委員会 編『岡山県史』 第五巻《中世Ⅱ》、岡山県、1991年3月31日。NDLJP:9576640 (要登録)
  • 馬部隆弘「摂津守護代薬師寺氏の寄子編成」(初出:『新修 茨木市史年報』第115号(2017年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6