葛西晴胤
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 明応6年(1497年)[注釈 1] |
死没 | 弘治元年(1555年)[注釈 2] |
別名 | 高信[1][2] |
官位 | 従五位下、左京大夫[1] |
氏族 | 葛西氏 |
父母 | 父:葛西晴重(稙信)、母:不明 |
兄弟 | 守信(稙清)、高信(晴胤)、晴清 |
妻 |
正室:江刺隆見の娘 継室:黒川景氏の娘 |
子 | 女子(長江勝景室)、親信、晴信、胤重 |
葛西 晴胤(かさい はるたね)は、戦国時代の大名。葛西氏第15代当主[1]。葛西晴重の子[1][3][4]。子に葛西親信、葛西晴信[1]。
略歴
陸奥国の戦国大名で葛西氏第14代当主・葛西晴重の子として誕生。
慣例により、室町幕府第12代将軍・足利義晴より偏諱の授与を受けて晴胤と名乗る(別名の高信(たかのぶ)はこの時までに名乗っていた諱と考えられる[2])。
伊達氏内部で天文の乱という内紛が起こると、晴胤は伊達晴宗に協力して、晴宗の実弟で葛西氏に養子として入っていた葛西晴清(葛西牛猿丸[4])を倒して伊達氏との同盟関係を強めた。また、葛西氏の居城を石巻城から寺池城に移し、葛西氏の戦国大名としての基礎を築き上げた。ただし、この時期の葛西氏の記録は家を2分する騒動を起こしていて非常に混乱しており、生没年を繰り下げるべきだとする説もある。
脚注
注釈
- ^ 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238では晴胤の生年は明応2年(1493年)
- ^ 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238では晴胤の没年月日は天文20年10月13日(1551年11月10日)
引用元
- ^ a b c d e 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238 より。
- ^ a b 「高」の字は第11代将軍・足利義高(のちの義澄)からの偏諱とも考えられる。ただし、父・晴重と兄・守信の別名(稙信、稙清)が12代将軍・足利義稙より一字を賜ったとみられる諱であるため、この点では矛盾している。
- ^ 陸奥盛岡藩系の系譜による。
- ^ a b 仙台藩系の系譜では、葛西牛猿丸(伊達稙宗の七男)は晴胤のことであり、葛西晴重の養子になったとされている。
参考文献
- 阿部猛 編『戦国人名事典コンパクト版』西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。