コンテンツにスキップ

葛西晴胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。いいすく (会話 | 投稿記録) による 2016年8月1日 (月) 08:05個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
葛西晴胤
時代 戦国時代
生誕 明応6年(1497年[注釈 1]
死没 弘治元年(1555年[注釈 2]
別名 高信[1][2]
官位 従五位下、左京大夫[1]
氏族 葛西氏
父母 父:葛西晴重(稙信)、母:不明
兄弟 守信(稙清)高信(晴胤)晴清
正室:江刺隆見の娘
継室:黒川景氏の娘
女子(長江勝景室)、親信晴信胤重
テンプレートを表示

葛西 晴胤(かさい はるたね)は、戦国時代大名葛西氏第15代当主[1]葛西晴重の子[1][3][4]。子に葛西親信葛西晴信[1]

略歴

陸奥国戦国大名葛西氏第14代当主・葛西晴重の子として誕生。

慣例により、室町幕府第12代将軍足利義晴より偏諱の授与を受けて晴胤と名乗る(別名の高信(たかのぶ)はこの時までに名乗っていたと考えられる[2])。

伊達氏内部で天文の乱という内紛が起こると、晴胤は伊達晴宗に協力して、晴宗の実弟で葛西氏に養子として入っていた葛西晴清(葛西牛猿丸[4])を倒して伊達氏との同盟関係を強めた。また、葛西氏の居城を石巻城から寺池城に移し、葛西氏の戦国大名としての基礎を築き上げた。ただし、この時期の葛西氏の記録は家を2分する騒動を起こしていて非常に混乱しており、生没年を繰り下げるべきだとする説もある。

脚注

注釈

  1. ^ 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238では晴胤の生年は明応2年(1493年
  2. ^ 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238では晴胤の没年月日は天文20年10月13日1551年11月10日

引用元

  1. ^ a b c d e 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238 より。
  2. ^ a b 「高」の字は第11代将軍・足利義高(のちの義澄)からの偏諱とも考えられる。ただし、父・晴重と兄・守信の別名(稙信、稙清)が12代将軍・足利義稙より一字を賜ったとみられる諱であるため、この点では矛盾している。
  3. ^ 陸奥盛岡藩系の系譜による。
  4. ^ a b 仙台藩系の系譜では、葛西牛猿丸(伊達稙宗の七男)は晴胤のことであり、葛西晴重の養子になったとされている。

参考文献

  • 阿部猛 編『戦国人名事典コンパクト版』西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9