菅原孝標
ナビゲーションに移動
検索に移動
時代 | 平安時代 |
---|---|
生誕 | 天禄3年(972年) |
死没 | 不詳 |
官位 | 従四位上、常陸介 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇 |
氏族 | 菅原氏 |
父母 | 父:菅原資忠、母:源包の娘 |
兄弟 | 孝標、致尚、文直、女子 |
妻 | 藤原倫寧の娘、高階成行の娘 |
子 | 定義、基円、孝標女、女子 |
菅原 孝標(すがわら の たかすえ)は、平安時代の貴族、受領。右大臣・菅原道真の曾孫にあたる右中弁・菅原資忠の子。官位は従四位上[1]・常陸介。
経歴[編集]
『更級日記』の著者である菅原孝標女の実父。因幡掾在任中の正暦4年(993年)東宮昇殿を聴される。長保3年(1001年)に従五位下に叙爵。寛仁元年(1017年)に上総介、長元5年(1032年)に正五位下・常陸介に叙任された。学問の家に生まれたが、孝標は大学頭・文章博士には任官しなかった。
『更級日記』によると、常陸介として赴任した4年後の長元9年(1036年)に帰京し、高齢で再びどこかの国司に任命されたらしい。高齢で任国へ赴く父との今生の別れの箇所は、『更級日記』の中でも有名なシーンの一つである(実際には無事に生きて戻ってきた)。