自由アチェ運動

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自由アチェ運動
Flag of Aceh.svg
自由アチェ運動の旗
創設 1976年
国籍 インドネシア
忠誠 民族主義, 分離主義
任務 ゲリラ
指揮
現司令官 ハッサン・ディ・ティロ
識別
識別 イスラムの三日月と星
識別 GAM(イニシャル)

自由アチェ運動(じゆうアチェうんどう、インドネシア語Gerakan Aceh Merdeka)はインドネシアアチェ州の分離独立を目的としていた武装組織[1]。正式名称はアチェ・スマトラ民族解放戦線(Aceh/Sumatra National Liberation Front、ASNLF)だが[2]、インドネシアではGAMが通称として使われることが多い[3]1976年の結成以来、インドネシア中央政府およびインドネシア国軍と長期にわたり武力抗争を継続していたが、2005年8月にヘルシンキ和平合意でインドネシア政府と和平を結ぶに至った[4]

GAMの歴史[編集]

設立の背景[編集]

インドネシア独立戦争においてアチェ州オランダ軍の上陸を阻み続け、州外へ奪還のための義勇軍を派遣し、臨時政府の拠点となるなど大きく貢献した[5]。戦後になると、戦時中にアチェで軍政司令官を務めていたイスラム指導者ダウド・ブルエが独立戦争での貢献に見合うだけの地位と権限をアチェに与えるよう要求し、武装反乱を起こした[5]。これに応じて1959年に首相通達が出され[5]スカルノ大統領はアチェを「特別州」に指定した[6]。東京大学の西芳美によれば、この「特別州」とは宗教、教育、伝統文化の分野で最大限の地方自治が可能であることを意味するものだという[5]。また、東京工業大学の山本元は、スカルノ大統領は将来のアチェ州独立を仄めかしていたと記している[6]。だが、次の大統領スカルノ政権下においてアチェ州の自主性は抑制されることになった[3]1971年ロクスマウェ市近郊で天然ガスが発見されたものの、州政府の期待に反して天然ガス開発の主導権はインドネシア政府が握ることになった[7]。このような石油・天然ガスの利権をめぐる問題は独立運動を高揚させ、GAMの結成につながることになった[1]

設立[編集]

前述のような状況に対し、1976年、自由アチェ運動(以後GAMと記載)が結成されアチェの独立が宣言された[8]12月4日ピディ県英語版アチェ王国の後継国として「アチェー・スマトラ国」の独立が宣言された[3]。だが、翌年の1977年に政府が彼らの存在を把握したため、関係者は逮捕され、最高指導者のハッサン・ティロも国外へと脱出しシンガポール経由でスウェーデンへと亡命した[3]。その後、スウェーデンを拠点として活動が続けられたが[3]、アチェでの運動は表面上鎮静化していた[8]

活動再開[編集]

GAMの旗を掲げる人々

アチェでGAMの活動が再度活性化したのは1980年代半ばになってのことだった[3]。ピディ県や北アチェ県ではゲリラ兵士が集められ、指揮官候補者はリビアに行き軍事訓練に参加するなど、武装蜂起の準備が進められた[3]1988年半ばにはピディ県の軍事施設が襲撃された[3]。GAMの活動は過激化し、国軍からの武器強奪やジャワ人移住者への脅迫を行っていたという[3]。当時のアチェ州知事イブラヒム・ハッサンはスハルト大統領に治安の早期回復が必要だと進言し[9]1989年、アチェ州は「軍事作戦地域」 (Daerah Operasi Militer) 、略称DOMに指定された[1]。アチェ州には国軍の部隊が集中投入され、1992年までに主要なゲリラ幹部は逮捕もしくは射殺され、もしくはアチェ州外へと逃亡し、掃討作戦は成功したと考えられた[9]

国軍はその後もアチェに駐留していたが[10]1998年5月にスハルト政権が退陣すると[1]DOM下で深刻な人権侵害が発生していたことが判明し、アチェ州知事もユスフ・ハビビ大統領にDOM指定を解除するよう提言した[11]。同年8月、DOM指定を解除しアチェ州外からの増援部隊を撤退させると発表された[12]。だが、同年10月、北アチェ県英語版に活動中のGAMグループが存在するとの報告があった[13]。これ以降アチェ州では治安の悪化が進み、12月には東アチェ県英語版で国軍兵士7名の拉致が発生、翌年1999年3月からは公立学校や郡役場への連続放火、5月には巡回中の治安部隊を標的とした襲撃も発生した[13]。これに対し、軍と警察は治安維持・回復作戦を実施したものの、失敗に終わった[13]。5月3日に北アチェ県クルン・グクー地区で住民への発砲事件が発生し46名が死亡するなど、DOM時代同様に軍と警察による人権侵害事件が続いた[14]。軍と警察がGAMが煽動行為をし発砲につながったなどと説明する一方、GAMは犯行を否定する声明を出した[15]。治安維持・回復作戦は住民の支持を得ることができず[13]、インドネシア内外からの批判を受けて8月18日に停止された[16]。これにより、従来はピディ県、北アチェ県、東アチェ県を拠点としていたGAMはアチェ全域に活動範囲を広めることとなった[16]

失敗した和平交渉[編集]

2000年ワヒド政権において中央政府とGAMの間で一時的停戦合意が結ばれた[8]。3月12日にグワナン国家官房長官が、4月13日にサアド人権大臣がジュネーブに派遣され、両者は非公式に和平交渉を行った[17]。結果、5月12日に一時停戦の合意が成立し、その後3ヶ月間はアチェの治安は回復した[17]。2001年8月、メガワティ政権においてアチェ州特別自治法が制定され、2002年1月に施行された[1]。2002年12月には和平協定が締結されたものの、アチェ駐留軍は協定を無視してGAMの掃討作戦を継続、GAMも政府との対話路線を捨てて武力衝突が続いた[17]。これに対し国連事務総長が先進国に働きかけて東京で交渉が行われることになった[18]。直前にGAMが逮捕されたGAM代表5名の釈放を要求したが、インドネシア政府はそれを受け入れ[18]、2003年5月に東京で「アチェ復興に向けた国際支援国会議」が開催された[17]。だが、交渉ではインドネシア政府がGAMに武器の6割を国家警察に提出することなどを要求し、この交渉は決裂した[注釈 1][18]。翌月の6月、メガワティは大統領令を発令して外国人、NGO、ジャーナリストのアチェ州への移動を規制し、8月にはアチェ州に対する軍事非常事態宣言を出しGAM掃討作戦が始まった[1]。宣言は2004年5月に解除されたものの、大統領令により民間非常事態とされ武力抗争はさらに継続した[1]

スマトラ沖地震とヘルシンキ和平合意[編集]

2004年12月26日スマトラ沖地震が発生し[19]これが和平の切っ掛けとなった[1]。『外国の立法』』によればこの地震と津波によるアチェ州の被害は死者12万8000人、行方不明者3万7000人、被災者100万人に及んだという[20]。災害により大打撃を被ったGAMは中央政府への態度を軟化させており[21]、同年2月からクライシス・マネジメント・イニシアティブ英語版 (CMI) 代表でフィンランド元大統領のマルティ・アハティサーリと共にGAM指導部と接触していたユスフ・カラ副大統領は[20]和平交渉を本格化させた[21]ヘルシンキで2005年1月から7月にかけて5回の和平交渉が行われ、8月15日にインドネシア政府とGAMの間でヘルシンキ和平合意が締結された[22]

和平後[編集]

和平合意によりGAMはアチェの政治に参加することが可能になったが、GAM指導部の中では政治参加について意見対立が発生した[23]。古参幹部は地方政党を設立してそこからアチェ州首相選挙に候補者を出馬させようとしたのだが、彼らが擁立した候補者のハスビ・アブドゥラはスウェーデンに亡命していた古参幹部ザイニ・アブドゥラ英語版の弟だった[23]。これに対し、アチェでの武力抗争を担っていた若手幹部は縁故による擁立だと批判し、GAMは2006年の首相選挙までに地方政党を結成することができなかった[23]。結局、古参幹部は開発統一党英語版のフマム・ハミドを州知事候補、前述のハスビ・アブドゥラを副知事候補として擁立し、若手幹部はGAM幹部のイルワンディ・ユスフを州知事候補、アチェ住民投票情報センター代表のムハンマド・ナザル英語版を副知事候補として擁立した[23]2006年12月11日、アチェ州首相選挙が実施されイルワンディ・ユスフが当選、翌年2月8日に就任した[4]

主張[編集]

本節では、GAMがアチェ州の分離独立の根拠としていた主張について記載する。アチェ王国のスルタンはかつてオランダに投降したが、彼らの主張ではこのときアチェの主権を委譲する手続きが行われておらず、アチェ王国はオランダ領東インドに組み込まれていないとされている。したがって、オランダ領東インドの主権がインドネシアに委譲された際にアチェ王国の主権も共に委譲されたのは無効だという[3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 山本によれば、この要求をメガワティに進言したのは当時、政治治安調整大臣を務めていたスシロ・バンバン・ユドヨノだったという。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 遠藤聡, p. 127.
  2. ^ 遠藤聡, p. 138.
  3. ^ a b c d e f g h i j 西芳美, p. 106.
  4. ^ a b 遠藤聡, p. 126.
  5. ^ a b c d 西芳美, p. 105.
  6. ^ a b 山本元, p. 139.
  7. ^ 西芳美, pp. 105, 106.
  8. ^ a b c 山本元, p. 140.
  9. ^ a b 西芳美, p. 107.
  10. ^ 西芳美, pp. 107, 108.
  11. ^ 西芳美, p. 108.
  12. ^ 西芳美, p. 111.
  13. ^ a b c d 西芳美, p. 112.
  14. ^ 西芳美, pp. 112, 113.
  15. ^ 西芳美, p. 113.
  16. ^ a b 西芳美, p. 114.
  17. ^ a b c d 山本元, p. 141.
  18. ^ a b c 山本元, p. 142.
  19. ^ 松井和久, p. 398.
  20. ^ a b 遠藤聡, p. 140.
  21. ^ a b 松井和久, p. 400.
  22. ^ 遠藤聡, pp. 128, 129.
  23. ^ a b c d 遠藤聡, p. 137.

参考文献[編集]

関連項目[編集]