能代港町

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のしろみなとまち
能代港町
廃止日 1940年10月1日
廃止理由 新設合併
能代港町、榊村東雲村能代市
現在の自治体 能代市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 秋田県
山本郡
総人口 25,756
国勢調査1935年
隣接自治体 榊村、東雲村
能代港町役場
所在地 秋田県山本郡能代港町
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能代港町(のしろみなとまち)は秋田県山本郡(旧檜山郡)にあった。現在の能代市中心部にあたる。

地理[編集]

歴史[編集]

  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により~~1.能代上町、2.能代大町、3.能代万町、4.能代幸町、5.能代長根町、6.能代上後町、7.能代赤館町、8.能代柳町、9.能代畠町、10.能代富町、11.能代御指南町、12.能代馬喰町、13.能代中町、14.能代羽立町、15.能代上川反町、16.能代清助町、17.能代下後町、18.能代下川反町、19.能代新町、20.能代鍛冶町、21.能代出戸町、22.能代本町.23.能代南中町、24.能代盤若町、25.能代能代町 以上25町の区域をもって発足
  • 上記以後の区域【町村制廃止以前の区域~~大町新道、材木町、横町、寺町、旭町、畠町追分、濱新道(清助町新道)、 恵比須町、新柳町、柳町新道、八幡町、住吉町、榮町、東住吉町、樽子山第一道路、樽子山第二道路
  • 通称名の区域【町村制廃止以前の区域】≪・稲荷小路(柳町)・焼場小路(富町)・三坂下(畠町)・畠町下(畠町)・川反(大町)・中学校通り(樽子山)≫
  • 1940年昭和15年)10月1日 - 榊村・東雲村と合併して、全国で165番目の市として能代市が発足。同日能代港町廃止。
  • 補足:昭和33年2月に能代市の一部を編入し現在の住所へ町名等を改名

歴史から見る名称の変遷[編集]

秋田氏(引田臣阿部氏)系譜図

能代地域は軍事氏族である引田系阿部氏と大きく関わってきた。

阿倍氏は、平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族で、第8代孝元天皇の子「大彦命」の子で四道将軍の一人「武渟川別・(建沼河別命)」を元祖とする皇別氏族である、明治期に編纂された華族類別録で安倍氏の子孫は、土御門家阿倍氏と同じ孝元天皇の皇子大彦命の後裔であると位置づけられている<奥州安倍氏大彦命を始祖として齶田・渟代の蝦夷を順えた阿倍比羅夫につながる安倍氏系図もある>

安倍氏の由来に関わる神話や伝説はいくつかある、例えば

元慶2年三代実録・西暦878年頃(賊地12村 国府地3村)地名
元慶2年三代実録・西暦878年頃(賊地12村 国府地3村) 地名

~『東日流外三郡誌』によれば、長髄彦は、兄の安日彦とともに、大和にある邪馬台国の国王であった。しかし、神武天皇率いる日向軍に敗れて、二人は津軽に落ち延び、まもなく津軽を制圧して、新たにアラハバキ族をなのった。「秋田系図」「藤崎系図」によると、安倍氏は安日彦の子孫である。 等々

  • ●◎飛鳥時代<592年~710年> ~斉明紀頃(594~661)蝦夷<蝦狄・狄>~渟代(ヌシロ)<齶田・渟代
  • 斉明4年(658年)「夏四月阿部臣船師一百八十艘を率いて蝦夷を討つ齶田渟代二郡の蝦夷望怖ちて降らんと乞ふ。 是に軍を勒へて船を齶田沖に陳ぬ齶田の蝦夷恩荷進み誓ひて曰く。官軍の為の故に弓矢を持たらす、但奴等肉を食ふの故持たり、若し官軍の為に弓矢を儲けたらは齶田浦の神も知りなむ。淸白心を将て朝に仕へんと申す。仍て恩荷に小乙上を授け渟代、津軽二郡の郡領を定め遂に有間の浜にて渡島の蝦夷等を集めて大に饗して帰されき。」 ~六国史日本書記より 書物にはじめて今の能代《渟代》の名が登場する。
  • 白鳳10年(682年)中央政府の越ノ國の一部として、出羽郡を置き城柵出羽柵)を設けた。~六国史続日本紀 ≪九月丙戍車駕還丶宮越後国言、新建₌出羽郡_之許≫
  • ●◎奈良時代<710年~794年>~宝亀紀頃(770~781) 蝦夷<蝦狄・狄>~野代湊 
  • 和銅5年(712年)出羽國に昇格 ≪所在地不明だが推定では凡そ山形・秋田縣⇒最上川下流地域一帯≫~六国史・続日本紀巻四 
  •  ※ 天平5年(733年)出羽柵が秋田へ北進~ (現在の秋田市寺内町高淸水岡)
  •  ※ 天平宝字4年(760年)頃出羽柵は秋田城へと改変
  • 宝亀2年(771年)~「渤海国の使者壱万福等使船十七艘に三百二十五名を乗せて賊地野代湊に漂着す」と六国史・続日本紀<宝亀二年紀>に記載されている。        賊地とは中央政府から見てのことで、比羅夫の討征以降もまだ不安定な地であることが分かるが、野代はこの頃すでに塞外の要津であった。又渟代から野代湊と表記が変わっている。
  •  ※ 宝亀11年(780年)出羽蝦夷の反乱が起こり出羽鎭狄將軍 安倍臣家麻呂⇒⁽阿部比羅夫の曾孫⁾鎭撫せしめた、その後秋田城出羽介を長とする鎮守部隊がおかれた(出羽城介)。
  • ●◎平安時代<794年~1185年> 蝦夷<蝦狄・狄>~野代 ※平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されていた
  •  ※延暦15年(796年)陸奥出羽按察使凲陸奥守 坂上田村麻呂 陸奥出羽の夷俘を調査
  •  ※延暦19年(800年)征夷大将軍 坂上田村麻呂  諸國の夷俘を調査  ~☆ 享和元年(1801年)菅江真澄著 ・【雪の道奥雪の出羽路<住吉社由來>・齶田浦神】に - 「今ノ山本ノ郡米代のみなと向ひ能代の浦落合という地に古へいといとふるき宮地ありし、その後田村將軍鉾と旗とを秘藏てあらたに齊き奉りて蝦夷平八幡と近より称へ奉りしが。。。」とある 
  •  ※延暦23年(804年)蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となった
  •  ※ 前九年の役 【永承6年(1051年)~康平5年(1062年)】~安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守・藤原登任から後任の源頼義とした争い。    安倍頼時が戦死したため息子の安倍貞任が跡を継ぎ、弟の安倍宗任とともに一族を率いて戦いを続けたが、康平5年(1062年)9月~厨川の戦いで貞任は敗れ討たれる。 こうして安倍氏は滅びて戦役は終結した。康平5年(1062年)前九年の役で敗れた安倍貞任次男高星丸が津軽へ逃れた、後の藤崎安藤氏の遠祖となる。   
  •  ※安倍頼時の娘の1人(有加一乃末陪)が亘理郡の豪族・藤原経清に嫁ぎ男子をもうけていた、清原武則の長男・清原武貞に再嫁することとなり、経清の息子もまた武貞の養子となり、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。後三年の役をへて清衡は実父・経清の姓である藤原氏を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。
  •  ※ 葛西清重葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、奥州惣奉行職に就任して以後は、米代川流域も葛西氏の勢力範囲となった。
  • 元慶2年(878年)~出羽国≪元慶の乱≫ 「三月十五日十二村の夷俘突然叛乱を起し秋田城を襲い官舎民家を焼き狂暴を極めた。その為に北辺鎮護の秋田城は軍資器材の一切を失い破滅的大打撃を蒙り、秋田城司良笭近はかろうじで脱出した。この報告を受けた出羽守藤原興世は兵を遣し隘口野代営を守らんと焼山に至る時、賊兵突然官軍の後方に逸早く出たので官軍敗退して死傷者続出した。これには朝廷も大いに驚き、隣国の陸奥国に早速援兵二千人、更に上野国下野国二国にも各一千名づつの援兵を出すべきことを命じ、六月初め諸国よりの援兵もふくめて約五千の大軍が秋田城に集り、出羽権守藤原保則の到着を待ってまさに大攻撃に転じようとした時に、再び夷俘の襲撃をうけ、備貯せる軍馬千五百疋、用三百、米糒七百石、衾一千等を失い再び大惨敗を蒙るに至る。」~六国史・三代実録<元慶二年紀>より      秋田城(旧出羽柵)の分営として野代営は北方面の重要な塞であった。
  •  ※ 元慶2年(878年)日本三代実録 巻第34 起元慶二年七月より  『秋田城下賊地者、上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡十二村也。向化俘地者、添河、覇別、助川三村也。』と記載がある。                                                        出羽国秋田城内で国府に従わない蝦夷の地域は 上津野(鹿角)・火内(大館・比内)・榲淵(阿仁・鷹巣)・野代(能代)・河北(向能代)・腋本(脇本)・方口(浜田)・大河(大川)・堤(井河)・姉刀(浜井)・方上(大久保)・焼岡(金足)の12村である。朝廷に従がう蝦夷の地域は添河(旭川)、覇別(新屋)、助川(岩見)の3村他
    878年頃すでに、野代と向野代が蝦夷の集落としてあった事が地名として書かれている。( 河北の地名、群名の解釈について諸説あり)
  • ●◎鎌倉時代<1185年~1333年>
  •  ※ 文治五年(1189年)奥州藤原氏が、奥州合戦で滅亡し、残党が出羽で起こした大河兼任の乱も鎮圧されると、源頼朝は出羽国に橘氏(小鹿島氏:秋田県男鹿市)<御家人を地頭として>を配置した。
  •  ※鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽小鹿島が北条氏の所領となる
  •   ☆安東氏一族の所領は現青森県地方・道南地方に留まらず、鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽小鹿島が北条氏の所領となり、安東氏がその地頭代となったのではないかとする説もあり、惣領家とは別の安東一族の海を通じた広がりが推定されている。鎌倉時代後期から室町時代には、南下し秋田郡に拠った一族は上国家を称した。
  • ●◎南北朝時代<1336年∼1392年>
  •  ※ 建武の中興の際には、南朝側として、安東氏は勢力をさらに拡大した。しかし、足利尊氏の叛逆が明らかになると、一族は南朝方の下国安東氏(十三湊・福島城)、北朝方の上国安東氏(藤崎城)に分裂した。結果、下国安東氏が勝利し、下国安藤教季が藤崎城主と平賀郡の一大拠点大光寺城主を兼ねた(上国安東氏となる安藤鹿季が秋田郡に拠って戦国時代まで存続している)。
  • ●◎室町時代<1336年~1573年>
  •  ※ 応永初期(1394年頃)出羽国争乱につき、室町幕府が十三湊安藤盛季御教書をもって下命、秋田城介顕任をはじめ鎌倉期以来の小鹿島安藤氏の協力のもと、安藤盛季・安藤鹿季兄弟は出羽治領を討伐平定して、雄物川河口に城郭を構えて秋田湊城となり上国湊安東氏が樹立した。  
  •  ※康正2年(1456年)、「河北千町」を領していた葛西秀清を安東政季・安東忠季父子が滅ぼして檜山安東氏として檜山城に本拠を構える
  •  下国家安東氏は元々陸奥津軽十三湊付近を根拠とし、蝦夷地との交易を中心とした海上交通に従事する海の豪族であったが、下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ夷島に逃れた後、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退し、夷島から津軽奪還を幾度も試みたが果たせなかった。下国家安東政季安東忠季は1456年(康正2年)、息子の安東忠季とともに分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季(惟季)・<上国家∼後の湊家>の招きに応じ、秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移り、間もなく秋田河北地方(後の檜山郡、現秋田県能代市)の葛西秀清を滅ぼし、安東政季が檜山城の築城開始、安東政季が1488年(長享2年)河北糠野城で家臣の長木大和の謀反にあい自死すると安東忠季は家督を継いだ。
  •  ※明応4年(1495年) 、安東忠季が修築を完了~以後、尋季、舜季、愛季、実季まで5代にわたり檜山安東氏の居城となった。
  • ●◎戦国時代<一四六七年~1590年>~津軽安東氏⇒下国家(檜山安東氏)⇒秋田氏 ~野代・農志路 
  • 安倍貞任子孫を名乗る津軽安東氏・~⁽鎌倉時代から戦国時代の末まで⁾ ・安藤氏は室町時代頃より安東氏を称するようになる、【下国家(檜山安東氏)、湊家(湊安東氏)≪下国家の愛季が湊家をも継承して、元亀元年(1570年)に下国家と湊家«上国家»の両安東氏を統合し安東氏宗家となる≫】その後裔の宗家は戦国時代末期に・秋田氏と改めた、徳川・江戸時代に入り、常陸から減転封される佐竹氏との交換で慶長7年(1602年)に常陸宍戸藩5万へ立藩し移封された、その後常陸宍戸藩より転封し三春藩主となった。
  •  ※出羽国檜山郡は、遅くとも天正19年(1591年)には成立 15世紀半ば以前は河北郡と呼ばれていたと思われ、当地方に15世紀頃に成立したと見られている この時点での河北郡=檜山郡の領域は、現在の南秋田郡である馬場目川以北で現青森県深浦町までを含んでいたと推定されている
  • ●◎江戸時代<1603年~1868年>~寛文4年(1664年)、久保田藩 佐竹氏により檜山郡<2町72村>は山本郡と改称された。
  • 宝永元年(1704)~野代⁽農志路⁾から能代へと改称
  •  ※檜山郡は幕末時点までは出羽国に所属し、全域が久保田藩領であった
  • ●◎明治時代<1868年~1912年>~明治元年12月7日(1869年1月19日) - 出羽国が分割され、檜山郡は羽後国の所属となる。 【「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点に存在した村は以下の通り。檜山郡⇒(2町72村) 能代町≪能代各町の総称。「旧高旧領取調帳」には記載なし≫、檜山≪1町13村は「旧高旧領取調帳」に記載なし≫、塙村、畑谷村、田中村、強坂村、鳥形村、沼田村、高野々村、水沢村、目名潟村、八森村、岩館村、朴瀬村、真壁地村、吹越村、荷八田村、石川村、稲子沢村、内荒巻村、外荒巻村、栗山村、飛根村、鶴形村、駒形村、久喜沢村、槐村、常盤村、外割田村、天内村、矢坂村、大沢村、藤琴村、粕毛村、仁鮒村、小掛村、田代村、薄井村、比井野村、梅内村、荷上場村、種村、切石村、鵜川村、芦崎村、富岡新田村、大口村、浅内村、久米岡新田村、川尻村、浜田村、上岩川村、鯉川村、鹿渡村、天瀬川村、金光寺村、森岡村、外岡村、豊岡村、下岩川村、河戸川村、檜山町[3]、大内田村、機織村、仁井田村、扇田村、鰔淵村、向能代村、落合村、須田村、竹生村、坂形村、比八田村、小手萩村、太良鉱山】
  • 明治4年 1月13日(1871年3月3日) - 久保田藩が改称して羽後国秋田藩となる。
  • 明治4年 7月14日(1871年8月19日) - 廃藩置県により藩領が秋田県となる。
  • 明治4年 11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により秋田県の管轄となる。
  • 明治9年(1876年)(2町67村) 強坂村枝郷の小土村が独立し、残部は鳥形村と合併して坂形村となる。薄井村・比井野村が合併して二ツ井村となる。金光寺村・豊岡村が合併して豊岡金田村となる。大内田村・機織村・仁井田村が合併して三合村となる。
    稲子沢村が石川村に合併。
  • 明治10年(1877年) 栗山村・小土村が合併して磐村となる。(2町66村)
    三合村が榊村に改称。
  • 明治11年(1878年)12月23日 - 郡区町村編制法の秋田県での施行により行政区画としての山本郡が発足。郡役所を能代上町に設置。
  • 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により以下の町村が発足。(2町24村) 1.能代港町 ⁽ 能代大町等25町⁾   2.檜山町 3.二ツ井村 4.荷上場村 5.榊村 6.浅内村 7.浜口村 8.鵜川村 9.鹿渡村 10.上岩川村 11.下岩川村 12.森岡村 13.金岡村 14.扇淵村 15.鶴形村 16.富根村 17.響村 18.藤琴村 19.粕毛村 20.種梅村 21.常盤村 22.東雲村 23.塙川村 24.沢目村 25.八森村 26.岩館村

交通[編集]

鉄道路線[編集]

道路[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]