緒方郁蔵
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緒方 郁蔵(おがた いくぞう、1814年(文化11年) - 1871年8月24日(明治4年7月9日)[1])は、江戸時代後期の医師、蘭学者。字は子文、号は研堂または独笑軒[2]。
生涯
[編集]1814年(文化11年)、備中国後月郡簗瀬村(現在の岡山県井原市)に大戸萬吉の長男として生まれる[3]。9歳の頃から山鳴大年のもとで漢籍を学び[4]、14歳の頃には江戸にて大年の養子・山鳴弘斎とともに昌谷精渓の塾で漢学を修める[5]。20歳の頃から坪井信道の塾で蘭書を学び、坪井塾では後に義兄弟となる緒方洪庵と出会う[5]。1834年(天保5年)には父の命により帰郷するも、1838年(天保9年)には大坂(現在の大阪市)に上り、洪庵が開いた蘭学の適塾に、弘斎とともに入塾。1844年(弘化元年)、郁蔵は独立し独笑軒塾を開塾し、この頃から緒方姓を名乗り始める[6]。1849年(嘉永2年)には、大坂にて洪庵らとともに。除痘館を開設している[7]。1852年(嘉永5年)11月には相撲見立大坂医師番付に初めて郁蔵の名が掲載される。以降、同番付には1863年(文久3年)までの11年間で8回掲載されている[8]。1858年には除痘館を退職し[9]、8年後の1866年(慶應2年)には土佐藩が創設した開成館医局の教頭に任命され、同年9月に当時10歳の長男・緒方太郎、書生の安藤達平、別所謙太郎、僕弥助と共に土佐国(現在の高知県)に赴任している[10]。1868年(明治元年)、郁蔵は土佐藩より大坂在住を許され、翻訳家としての活動に専念することとなる[11]。1869年(明治2年)1月、大坂仮病院の設立に携わり、医学伝習の御用掛に就任している[12]。1871年8月24日(明治4年7月9日)、咽頭悪性腫瘍で死去。58歳没[1]。
親族
[編集]- 実家
- 実父:大戸萬吉
- 義弟:大戸三木造(萬吉の養子)
- 実妹:大戸すみ(萬吉の五女、義弟・三木造の妻)
- 自家
- 妻:エイ子(辰馬庄三郎の次女)
- 長男:太郎(医師)
- 長女:久重(道平の妻)
- 次男:三郎(大阪造幣局技師)
- 三男:四郎(医師)
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 古西義麿『緒方郁蔵伝 幕末蘭学者の生涯』(思文閣出版)