素木得一
素木 得一 | |
|---|---|
| 生誕 |
1882年3月9日 |
| 死没 |
1970年12月22日(88歳没) |
| 国籍 |
|
| 研究機関 | 北海道大学、台北帝国大学 |
| 主な業績 | 応用昆虫学などの発展 |
| プロジェクト:人物伝 | |
素木 得一(しらき とくいち、1882年3月9日 - 1970年12月22日)は、日本の昆虫学者。日本応用昆虫学会元会長[1]。応用昆虫学などを専門とし、害虫であるワタフキカイガラムシの大発生に対してベダリアテントウを導入して駆除を行い、日本において初めて天敵を利用した生物的防除を成功させたことで知られる[2]。また多数の昆虫を新種として記載したことでも知られている。
略歴
[編集]1882年(明治15年)3月9日、北海道函館市に生まれる[4]。父親の素木岫雲は大分県中津の出身で、当時は函館で師範学校の校長をしていた[4]。得一が4歳ぐらいの頃から、イギリス聖公会の宣教師だったジョン・バチェラーの元に行って英語やイギリスの文化に触れていたという[5]。得一が8歳のときに一家で東京に移転し、本郷西方町に居住した[5]。得一は誠之小学校の2年に編入したが、尋常4年のときに父親が熊本の高等小学校の校長となったため、一家で熊本へ移転した[6]。1892年(明治25年)、父親が札幌の創成小学校の校長として赴任することになり札幌に移転した[6]。
1899年(明治32年)、父親が若くして亡くなり、将来は医者になることを考えていた得一の進路は変更を余儀なくされた[7]。1900年(明治33年)、札幌農学校に入学する[7]。成績が良く公費生となり、授業料の免除と学費の支援がされ、また数学が得意だったため鉄道の助役などに数学を教え生活費を稼いだ[7]。スポーツも得意だったため、野球、テニス、ボートの選手もこなした[7]。この頃の野球部の部長が松村松年だった[7]。また数年上のクラスにいた有島武郎からは絵を習った[7]。
札幌農学校(現:北海道大学農学部)に進学し、松村松年に師事して昆虫学を専攻した。1906年(明治39年)に札幌農学校を首席で卒業後、同学校の助教授に就任[8]。その翌年には台湾総督府農事試験場に赴任し、昆虫部長、植物検査所長を歴任[8]。1928年(昭和3年)に台北帝国大学が設立されると、同大の教授として赴任し[8]、特に害虫駆除の観点から応用昆虫学、植物学などの研究を進めた。1938年(昭和13年)には理農学部長、1942年(昭和17年)に台北帝国大学を退官し、同年9月に名誉教授となった[8][3]。
第二次世界大戦後は台湾大学教授などを務め、1947年(昭和22年)に日本へ帰国した[3]。翌1948年に日本応用昆虫学会会長に就任。1953年(昭和28年)には日本昆虫学会名誉会員、1957年(昭和32年)には日本応用動物昆虫学会名誉会員にそれぞれ推挙された[2]。また退官後にも多数の著作や論文を執筆した。
1970年(昭和45年)に心臓衰弱で死去。生涯に発表した論文は約150編、約15000ページにのぼる[8]。墓所は多磨霊園(10-1-15-1)[9]。
主な著作
[編集]脚注
[編集]- ↑ 「素木得一」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社。コトバンクより2025年11月29日閲覧。
- 1 2 一色周知(1971) 素木得一先生の追憶. 昆蟲 39(3), 321-323
- 1 2 3 中根猛彦「素木得一」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。コトバンクより2025年11月29日閲覧。
- 1 2 奥本 2025, p. 126.
- 1 2 奥本 2025, p. 127.
- 1 2 奥本 2025, p. 128.
- 1 2 3 4 5 6 奥本 2025, p. 129.
- 1 2 3 4 5 南川仁博(1971) 素木得一先生をいたむ. 日本応用動物昆虫学会誌 15(1), 4
- ↑ “素木得一”. 歴史が眠る多磨霊園. 2025年11月29日閲覧。
参考文献
[編集]- 奥本大三郎『昆虫学事始 日本の昆虫研究を支えた人々』青土社、2025年9月30日。ISBN 978-4-7917-7730-3。