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米津政容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
米津政容
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 天和2年(1682年
死没 元文4年7月27日1739年8月31日
改名 頼母(幼名)、政容
戒名 感月澄譚旛龍院
墓所 東京都江東区深川清澄町の本誓寺
官位 従五位下出羽守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
武蔵久喜藩
氏族 米津氏
父母 米津政武
米津政矩
兄弟 政矩政容伊沢政周
大久保教寛正室、青木直宥正室
松平信定
本多忠英
政崇武田信村婚約者、
酒井忠陸正室、酒井忠陸継室、
近藤英用継室、青木直暢正室、
竹中元躊正室ら
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米津 政容(よねきつ まさよし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名武蔵国久喜藩3代藩主。官位従五位下出羽守

略歴

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天和2年(1682年)、初代藩主・米津政武の次男として誕生した。元禄11年(1698年)に父が隠居した際、家督は長兄の政矩が継ぎ、政容には別に上総国下総国国内で1000石を分与されて、寄合旗本に列した。その後は5代将軍・徳川綱吉の下で小姓並、次いで小姓として仕えていたが、政矩が元禄16年(1703年)に早世したため、その養子となって久喜藩の家督を継いだ。このとき、1000石は幕府に収公されたため、久喜藩は1万1000石となる。

綱吉からの寵愛は深く、綱吉が亡くなるまで小姓を務めた。その後も大番頭を経て、享保14年(1729年)11月に大坂定番に任じられたが、在任中の元文4年(1739年)7月27日、大坂で死去した。享年58。

跡を三男の政崇が継いだ。

系譜

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