秋岡家栄
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秋岡家栄(あきおか いえしげ、1925年(大正14年) - )は、日本の作家、元新聞記者。
元朝日新聞社北京支局長、朝日中国文化学院創設者兼初代院長、日中友好99人委員会創設者兼総代表[1]。中国の文化大革命期に中国政府から国外退去を命じられずに中国に残った9人の外国人記者のうち、ただ1人の日本人記者[2]である。
人物
[編集]- 毛沢東は慈愛あふれる指導者であり、文化大革命はとてもいいことだと称えた[3]。
- 毛沢東や中国共産党べったりの記事を書き続け、広岡知男社長直属とも言われる存在だったが、林彪失脚を否定し続けた為に朝日新聞も失脚を否定し続け、朝日新聞が人民日報はもとより、世界で一番遅く林彪失脚を報道したと言われた原因となった。
- 娘の秋岡栄子は2010年に中国上海市で開催された上海万博にて日本産業館館長を勤めた[4][5][6]。
来歴
[編集]1967年11月 - 1972年11月、朝日新聞社北京支局駐在[8]。
エピソード
[編集]- 中国のメディアの取材に対して「1967年11月、私が朝日新聞から北京に派遣された時、中国外交部は人民日報に目を注げ、大通りのあれらの壁新聞は見るな、勝手な取材もしてはならないと要求した。だから、当時中国で何が起きているのか私はあまりよくわからなかった。当時私が居住していたホテルの屋上でとても多くの割れた酒瓶を見かけ、ホテルの従業員はみな(文革の)武装闘争に関係していたが、武装闘争の場面を直接目の当たりにすることは無かった。」と述べている[9]。
- 中国駐在中に周恩来と数十回会っている[10]。
脚注
[編集]- ^ 「日本知华派有待东山再起 80年代曾辉煌一时」 "..秋冈家荣所创建的日中友好99人委员会.." 2008年5月7日 東方早報記事の転電
- ^ 「秋冈家荣:随着经济持续发展,中国人会更包容」 "..从1968年到1969年这段“文革”最厉害的时期,世界各国在北京的记者只有9人,日本记者就只有我一人.." 2008年5月28日、中国網
- ^ 高山正之『朝日新聞の魂胆を見破る法』テーミス
- ^ 百度百科「秋冈荣子」" ..上海世博会日本产业馆的秋冈荣子馆长,是著名日中友好人士秋冈家荣先生的女儿。"
- ^ 「上海万博日本産業館館長 秋岡栄子さん」 2010年10月28日 中国国際放送局
- ^ 「日本产业馆:美好无处不在」"..秋冈家荣的女儿、经济评论家秋冈荣子是日本产业馆馆长.." 2010年5月28日 人民日报海外版の転電記事
- ^ 「秋冈家荣:随着经济持续发展,中国人会更包容」 "..1943年我就去上海东亚同文书院留过学。我当时是日本全国性的公费留学生.." 2008年5月28日、中国網
- ^ 「远望楼:秋冈家荣与周恩来」 "..1967年11月至1972年11月,他任朝日新闻北京支局长。" 2005年9月18日 日本新華僑報網
- ^ 「秋冈家荣:随着经济持续发展,中国人会更包容」 "..1967年11月我被《朝日新闻》派驻北京,那时中国外交部要我们注意看《人民日报》,不让我看大街上的那些大字报,也不能随便采访人,所以中国当时发生什么事我并不太清楚。当时我在居住饭店的屋顶上,看见很多碎酒瓶子,饭店里面的服务员都参与了武斗,但是我没有亲眼看到过武斗场面。" 2008年5月28日、中国網
- ^ 「远望楼:秋冈家荣与周恩来」 "..秋冈先生见过周总理数十次.." 2005年9月18日 日本新華僑報網