秋山断
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秋山 断(あきやま たけし、嘉永2年11月3日(1849年12月17日)[1] - 昭和4年(1929年)11月13日)は幕末、明治の儒学者。幼名は於菟夜叉、後に次郎助。名は勝機。字は子勿。号は罷斎、蠔山、芦窓、希叟。本姓は源氏[2]。桑名藩儒秋山白賁堂次男。
生涯
[編集]嘉永2年(1849年)11月、伊勢国桑名城内柳原に桑名藩儒秋山白賁堂の次男として生まれた[3]。遺伝のため生まれつき近眼で、外で他の子供と遊ぶことができず、専ら家で父や兄直太郎に学問を教え込まれた[3]。安政3年(1856年)、8歳で藩校立教館に入学して南合果堂に学び、同時に大塚晩香家塾に入った[3]。10歳には『春秋左氏伝』『史記』を白文で通読したという[3]。
文久3年(1863年)から新陰流剣術を学び、慶応2年(1866年)河合半兵衛より七訣を得た[3]。慶応2年(1866年)立教館で句読師を勤め、慶応3年(1867年)京都警備のため上京し、京都所司代で句読師を勤めた[3]。
明治4年(1871年)文学館補教に任命されたが、病気のため辞退し、明治4年(1871年)松平定信伝記編輯掛、明治6年(1873年)御系図編輯掛を嘱託された[3]。明治7年(1874年)父兄が相次いで死去し、家督を継いだ[3]。以後は地元の子弟教育に尽力し、明治35年(1902年)県知事より金一封を賜った[3]。また、明治24年(1891年)3月東京を訪れている[4]。晩年は子もなく、視力を失い、生活に不自由したが、旧門弟等の結成した桑名尚徳会により新居等の援助を受けた[3]。
著書
[編集]- 「秋山氏筆記 つたの一葉」
- 「藩学伝」
- 「師友名録」
- 「白賁堂先生遺事 附寒緑先生遺事」
- 「養痾日程」
- 「楽翁公御遺事一班 みどりの竹」
- 「経余箚記」[5]
- 「罷斎手記」[5]
- 「読語類」?[5]
また、『温知余筆』に「勢海一滴」等を連載している。