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福原助就

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福原 助就(ふくはら すけなり、天文17年(1548年) - 天正5年11月27日1578年1月5日))は、戦国時代播磨国武将。一説に佐用城(福原城)主、また一説に福原則尚の姻族[注釈 1]高倉山城主ともいう[1][2]羽柴秀吉配下の小寺孝高(のちの黒田孝高)率いる軍勢によって討たれた。

経歴

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『黒田家譜』の叙述

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『黒田家譜』によれば、福原主膳助就は佐用城主で、秀吉に抵抗していた[3]。助就はもともと下野那須氏の一族で、もとは龍田太郎左衛門といったという[3]

天正5年(1577年)11月、秀吉は小寺孝高の策を入れ、一方だけ開けて佐用城を包囲した(兵法に言う囲師必闕の策であるという)[3]。時に、秀吉の勘気を被って浪人していた平塚藤蔵という者(のちの平塚為広)が孝高の元を訪れ、帰参のため武功を立てるため陣借りをした[3]。孝高は、城方は不利を悟り、夜中に空いた一方から退くはずであるから待ち受けて高名を挙げられよと助言した[3]。この話をひそかに聞いた孝高の家臣・竹森新次郎も待ち伏せを行い、主膳の弟・伊王野土佐と、主膳の家老・祖父江左衛門を打ち取った[4]。ときに平塚は複数の敵を相手を戦っていたのが、竹森が助勢し、平塚が鑓をつけて討ち留めた敵の首を平塚が取ると、これが福原主膳であったという[5]。このくだりは、平塚と竹森が手柄を譲り合い、孝高が平塚の功績と裁定して秀吉に推挙、平塚は帰参がかなったという話になっている[6]

なお、城方は城主らが討たれると引き返して力戦したが、城は落城し、黒田勢によって500名ばかりが討ち取られた[5]

脚注

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注釈

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  1. 出典[1]では「赤松満祐の甥・則尚の娘婿」とするが、赤松満祐の甥である赤松則尚は15世紀半ばに没した人物であって年代の隔たりがあり、錯誤と思われる。出典[2]では橋本政次『姫路城史』、小原啓志『福原城戦記』、『佐用郡誌』をその典拠(『黒田家譜』『隠徳太平記』『佐用軍記』)まで確認しつつ総合し、福原助就は福原則尚の妹婿で執事職とする。

出典

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  1. 1 2 高倉山城”. 山崎整の西播磨歴史絵巻. ラジオ関西 (2021年3月7日). 2025年8月2日閲覧。[信頼性要検証]
  2. 1 2 福原氏”. 武家家伝. 2025年8月2日閲覧。[信頼性要検証]
  3. 1 2 3 4 5 『黒田家譜』(『益軒全集 巻五』p.36)
  4. 『黒田家譜』(『益軒全集 巻五』pp-37.36)
  5. 1 2 『黒田家譜』(『益軒全集 巻五』p.37)
  6. 『黒田家譜』(『益軒全集 巻五』p.38)

参考文献

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関連項目

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