福原長堯
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 慶長5年10月2日(1600年11月7日) |
改名 | 直高→尚高→長成→長堯→道蘊 |
別名 | 直高、尚高、長成、通称:右馬助 |
墓所 | 永松寺(三重県伊勢市) |
官位 | 右馬助、左馬助 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 播磨福原氏(赤松氏の一族) |
父母 | 父:福原則高 |
兄弟 | 則尚、範仲、範叔、長堯 |
妻 | 正室:石田正継の娘 |
子 | 某 |
福原 長堯(ふくはら ながたか)は、安土桃山時代の武将、大名。正室は石田正継の娘で、石田三成の妹婿。豊後国府内城(荷揚城)主としては、初名の直高(なおたか)の方が有名である。
略歴[編集]
福原則高の子として生まれる。播磨福原氏は赤松氏の一族で、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に滅ぼされた福原則尚や福原助就の同族とされる。
はじめ豊臣秀吉に小姓頭衆[1]の1人として仕えた。福原右馬助を称す。後に馬廻衆。
天正15年(1587年)4月、島津攻めの根白坂の戦いにおいて、宮部継潤らと共に根白坂の砦を守った。10月には北野大茶湯の奉行を務めた。天正19年(1591年)11月、秀吉が三河国吉良で鷹狩りを催した際に随従した。
文禄元年(1592年)、文禄の役には肥前国名護屋城後備衆の1人として二の丸を守備した。文禄2年(1593年)、太閤蔵入地の播磨国三木郡(旧中川秀政領)の代官を務めた。
文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担し、このころ2万石の知行を得ていたが、但馬国豊岡城2万石に移封された。翌年7月、豊臣秀次が高野山で自刃した際には、福島正則、池田秀雄と共に検使を務めた。その前後で1万石が加増されている。
慶長2年(1597年)2月、豊後国大分郡、速見郡、玖珠郡の3郡を加増され、併せて12万石となり、早川長政が杵築城に移って、直高が府内新城(荷揚城)へ転封された。同年、豊臣姓を下賜される。
また慶長の役では、軍監として朝鮮に渡った。蔚山城の戦い後の追撃に際して、蜂須賀家政、黒田長政、毛利高政、早川長政、竹中重隆の軍令違反を秀吉に厳しく報告し、文治派と武断派の決裂を決定的とした。
慶長3年(1598年)の秀吉の死により、形見として国俊の太刀を賜った。以後は豊臣秀頼に仕えた。
慶長4年(1599年)、石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められ、五大老筆頭の徳川家康により府内領は没収されて、臼杵6万石のみの領有となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には西軍に属し、垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子らとともに大垣城の守備大将を務めた。西軍主力の敗北の直後の9月15日、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りに遭い、一直らが殺害されて二の丸、三の丸を失ったが、直高は本丸に立て籠もって抵抗。しかし城兵が離散して進退に窮し、9月23日に東軍の西尾光教の勧めで和議を容れて城を出た。この際、石田三成から与えられていた日向正宗を東軍の水野勝成に奪われている。
大垣城の開城後、和議の条件の通りに、長堯は出家して道蘊(どううん)と名乗り、伊勢国朝熊山に蟄居した。水野勝成は家康に長堯の助命を願いでたが、蔚山の戦いに黒田長政らの無断撤退を報告した軍目付で、東軍の蜂須賀家政らの恨みを買っていたこともあって許されず、自刃させられた。一説には殺害されたともいわれている。
長堯の死後、2歳だった子供は乳母らにより因幡国に逃れ、次の代で備前国に移った。この家系は現在も存続している。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 桑田忠親 『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、100頁。ASIN B000J9GTRU
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、207-208頁。