神との対話

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『神との対話』は、アメリカ人ニール・ドナルド・ウォルシュ(Neale Donald Walsh)が書いた書籍。原著は英語(英文タイトルは、Conversations with God)で、1995年にアメリカのHampton Roadsという小さな出版社から出版され、大手出版社のG.P Putnam’s Sons が版権を取得して翌年改めて出版しベストセラーになり、日本を含めて世界の20か国で翻訳・出版された[1]。日本語訳は、吉田利子によるもので、サンマーク出版から、第1部が1997年に、第2部が1998年、第3部が1999年にそれぞれ発刊されている。

続編として「神との友情」(Friendship with God)2部作を 2000年に、「神とひとつになること」(Communion with God)を 2001年、「新しき啓示」(The New Revelations)を 2003年、「明日の神」(Tomorrow's God)を 2006年に執筆出版し、2007年に出版された「神へ帰る」(Home with God)で、神との対話シリーズを完結させている。

沿革[編集]

著者ウォルシュの生い立ち[編集]

著者は、小学生時代、神父のような聖職者になることが夢だった。それは父親の反対でかなうことなく、マスコミ関係の仕事を手始めに、医学政治などいろいろなことを経験している。

私生活では、複数回の離婚を経験し、時にはホームレスの生活をしたこともある。まさに聖職者からホームレスというありとあらゆることを経験し、波乱万丈の人生を送っている。

彼は、『神との対話』をおこなって、「自分の人生は、今のためにあったと気付いた」と述懐している。

『神との対話』が始まったいきさつ[2][編集]

著者は、1992年のある日、行き詰まった人生に憤怒し、テーブルに置いてあったノートに怒りや失望の思いを、神に当てて書きなぐった。

書き終えてしばらくすると、自分のペンを持つ手が、何者かの力に拘束され、の言葉が、自動的にノートに書き始められた。それは、「まるで口述筆記をしているようだった」と著者は述べている。

『神との対話』は、このようにして始まった。

本書は、彼の質問に神が答えるという対話形式で、書かれている。

概要[編集]

神と宇宙[編集]

(1)神   [編集]

 『神との対話』では、神とは「存在のすべて」と表現されている。「存在のすべて」とは、全ての存在の根源であり、かつ被造物をも包含した存在全てを意味している。

 『神との対話』では、「存在のすべて」を、次のような表現で説明している。[3]

┌----------

わたしは神である。わたしは至高の存在である。存在するすべてである。はじまりであり終わりである。アルファでありオメガである。わたしは太陽であり物質である。問いであり答えである。上昇であり下降である。左であり右、現在であり、過去、未来である。

わたしの世界は、絶対の世界であって、そこでは、ひとつのものが、他との関係によって存在しているのではなく、何ものからも、独立して存在している。

わたしには、あなたがたが理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、(中略)わたしは偉大なる「見えざるもの」であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。

└----------

 創造主なる神を、被造物である人間の言葉で説明することは、自ずから限界があるといえる。時間・空間の中に生きる人間が、時間・空間をも創造した、すなわち時間・空間を超えた存在を、形容し表現する言葉そのものを、持ち合わせていないからである。[4]

(2)神性[編集]

 神性とは、神の属性(側面)をいう。

 神には、非常に複雑で、無数の層、感覚、面がある。例えば、冒涜的な面と深い面、小さな面と大きな面、うつろな面と神聖の面、おぞましい面と神々しい面など、ありとあらゆる性質を内包しているのである。[5] 

神の宇宙創造[編集]

(1)創造目的と宇宙創造[編集]

 神の宇宙創造は、すべての根源である神が、自らの性質(神性)を体験するために、自分の姿に似せて宇宙を創造した。[6]

 「存在のすべて」である神は、絶対の存在(他者に依存しない存在)であるため、概念としての知識はあったが、体験としての知識はなかった。そこで、相対的な世界、すなわち宇宙を創造し、体験的に、あるいは実感的に、自らの神性を知ろうとしたのである。

 絶対的世界は、他者に依存しない、存在そのものであるため、自らの神性を体験的に知るには、相対的世界に入らなければならないのです。

 例えば、容姿など自分自身について全く情報を持たない人間が、光や音など五感で感じるものが何もない部屋の中にいるとする。そこでは自分について知る方法が、何もない。

 そこに1点の灯りが出現したとする。すると、自分と灯りとの距離、灯りの大きさなどの相対関係から、自分の位置や大きさなどを知ることができる。さらに灯りが明るくなって自分の姿が映し出されれば、自分の容姿も見えてくる。

 このように相対的世界では、他者との相対的関係をもつことによって、自分自身を知ることができるのである。

 宇宙は、物質的世界と、霊的世界からなっている。

 要約すれば、神の宇宙創造は、無形の神すなわち「存在のすべて」の神が、無数にある神性を表現して有形的な宇宙を創造し、まさに自分自身を鏡に映すようにして、自分を体験するために行なわれたのである。

 それは、画家が自らの脳裏に浮かんだ無形のイメージを、キャンバスに描いて表現(有形化)し、それを客観視することにより、喜びを実感することと似ているといえる。

(2)魂の創造[7] [編集]

 神は、神自身の性質と能力を分与した魂を創造した。それは、神の分身(分霊)といえる。

 神の分身である魂が、物質的世界の人間に宿ることにより、いろいろな体験をする。

 人間は、魂-精神-身体という3層になっている。

 魂自身が自らを体験的に知ることによって、神自身も自らを体験的に知ることができるのである。

 いいかえれば、魂の目的は、神から分与された概念としての知識を、人間の精神-身体による活動、すなわち人生において実体験し、体験としての知識を体得することである。

 魂が実体験するときに、神自身も無形なる絶対的な自分自身(神性)を、有形的に実体験しているのである。

 神の分霊である魂の目標は、母体である神の無形なる神性を実体験して成長、完成し、神に帰一することである。

(3)人間の創造と人間の構成要素[編集]

 人間は、魂の乗り物として、創造された。したがって、人間は、魂-精神-身体からなっている。[8]

 魂は、神の分霊として個別性をもちながらも、全てがつながっている。それを家の中の空気に例えて説明している。

 空気はすべてつながっているが、家の中では、各部屋ごとの独特の空気、例えば、台所なら食物の香りがする、リビングルームはそれ特有の雰囲気があるというように、個と全体がつながっている。しかも、屋外の空気ともがつながっている。[9]

 魂もそれと似ている。人間一人ひとりの魂の個別性はありますが、それらは決して別々に分離しているのではなく、つながっているのである。

 さらに神と魂の関係を、大洋と波を例えにして、説明している。[10]

┌----------

 大洋がなければ、波は波として存在する力をもたない。

 小さくても大きくても波は波だ。

 波のひとつひとつは違っていても、どの波も、大洋そのものと分離してはいない。

 波は浜辺に打ち寄せるが、存在しなくなるわけではない。かたちを変えて、また大洋に戻っていく。

 波の存在は、大洋の存在の証だ。

 あなたの存在は、神の存在の証だ。

└----------

 大洋と波はつながっている。その成分組成も同じで、波は大洋の一部なのである。

 波にも、大きな波、小さな波など千差万別の波があるが、それは大洋の様々な性質の表れである。

 そして波は浜辺に打ち寄せるが、存在しなくなるわけではない。かたちを変えて、また大洋に戻っていくのである。

 大洋と波の関係と同じように、魂は神の分霊で、神と魂はつながっているのである。

(4)地球外生命体[編集]

 『神との対話』には、地球外生命体(特に、高度に進化した生命体)について次のように書かれている。[11][12][13]

┌----------

 べつのところにも生命体がある。この巨大な宇宙にいるのがあなたがただけだと、ほんとうに思うか?

 地球外の生物が助けてくれている。彼らはあなたがたのなかに、おおぜいいる。何年もあなたがたを助けている。

 他の(地球外生命体の)ほとんどの文明があなたがたよりも進んでいる。

 すべてのひととすべてを分け合う。

 所有という言葉や概念はない。

 人類よりもずっと長生きする。

 子供が子供を育てたりはしない。

 罪悪感や恥を感じない。

 競争しない。ひとりが失えば、全員が失うことを知っている。

 さまざまな生物がいる。地球上と同じだ。それどころか、もっと多様な生物がいる。

 何が「ためになるか」という考え方がまるでちがう。

 「もたざる者」はいない。あなたがたの社会のように、おおぜいのひとがみじめなどん底で暮らすこともない。

 集落で暮らしている。あなたがたの世界でいえばコミュニティだが、「都市」とか「国家」という考え方はもうやめてしまった。

 衣服を着る必要を感じない。高度に進化した文明は環境を創造し、コントロールし、行き届いた管理をしている。

 テレパシーでコミュニケーションする。

 学校制度はない。

└----------

人生[編集]

(1)自己創造のプロセス [編集]

 魂には、無数の神性が、概念としての知識として付与されている。

 人生は、魂が宿った人間の生活活動を通して、神性を実体験して、体験としての知識に変えていくプロセスである。すなわち、現実の生活に起こるさまざまな出来事をツール(道具)として、考え行動することによって、概念としての神性を体験して、体験としての知識を体得していくのである。[14]

 『神との対話』では、それをパソコンのCD-ROMを例えに、説明している。[15]

 CD-ROMの中には、目には見えないプログラムが入っている。それをパソコンに読み込ませると、パソコンはいろいろな作業をする。

 その作業が1つのゲームだとすると、(ゲームに例えるのは、神が人間を持て遊んでいるように誤解されて良くないが、とも述べている)ゲームの内容は、プログラムとしてCD-ROMの中にすでにすべて書き込まれている(これが、概念としての知識ということである。)

 ゲームのプレイ中に、場面場面にゲームの主人公の行動パターンを選択、決定して、ゲームを進んでいく(これが、体験としての知識である)。

 それが人間が歩む人生に似ている。すなわち、神の分身としての魂には、概念としてのプログラムがすでに付与されている。人間が人生の中でいろいろな場面に出会い、いろいろな決断をして行動していくとき、いろいろなことを実体験し、その概念としての知識を、体験としての知識に変えていくのである。その時、同時に神自身がそれを実体験しているのである。

 魂は、人生において、自分自身を新しく創造あるいは成長させるために、身体に宿る時に(生まれる時)、それまで生きた前世の記憶を忘れる。絵を描く時、白紙のキャンバスでなければ、新しい絵を描くことができないのと同じである。[16]

 過去の記憶を忘れることにより、神性を新たに実体験し、まったく新しい自己を創造していくのである。

(2)魂と精神[編集]

 人間は、魂-精神-身体という3層になっている。

 魂レベルの意志と、精神レベルの意志とは、必ずしも一致しない。高次の成長をとげていないレベルでは、精神は、魂の意志を感知できないのである。

 魂の目標は、神の神性を体験し成長していくところにある。

 しかし精神の目標は、この現実世界で、より良く生きていくところにある。そのより良いという価値観は、それぞれの成長レベルによって異なる。例えば、金銭に価値を置く価値観もあり、愛や真理に価値を置く価値観もある。

 魂は、神性を体験していくためのチャンスを、人生の出来事として用意していく。しかし、人間は精神の作用によって行動しているから、魂の意図するものとは異なる選択、決定がなされる場合がある。

 すなわち、精神は、出来事の場面場面において、おうおうにして、魂の意図するところとは違った選択、あるいは決定をしていく。そのために、その人間からすれば、自分の(精神の)意図とは違った結果が、現実には起きてくることがある。

 しかしこれは、決して意味のないものではなく、必ず魂が成長していくために役立つものなのである。[17]

 高次に成長したレベルでは、魂の意図を精神は理解できる。キリストや釈尊などのマスター(師)は、それらを理解できる人なのである。

(3)生と死[編集]

 魂-精神-身体が一体となった人間が、物質的世界(現実世界)で果たすべき課題が完了すると、物質的世界を離れて霊的世界に行く。[18]

 「死」は、物質的世界(物理的世界)から霊的世界へ移行する通過点であって、「生」の終わりではない。

 その逆に、輪廻転生によって霊的世界から物質的世界に移行する通過点が、「誕生」なのである。

 人間は、物質的世界でも霊的世界でも、形(エネルギーの振動数)は変わるが、魂-精神-身体の3要素からなっている。[19]

 「死」のプロセスは3段階からなる。[20]

 第1段階で、自分は物質的な身体ではないことに気づき、第2段階で、死ぬ時に抱いていた信念を体験する。

 第3段階で、神と一体化して、終えたばかりの人生を、それに関わった全ての人間の視点で振り返る。

 そして、神の「聖なる審問」を受ける。

 「聖なる審問」の時、霊的世界に進むか、今来た元の物質的世界に戻るかは、人間が自由に選択できる。

 霊的世界に進むという選択をして霊的世界に入った時、人間の「死」のプロセスが完了する。すなわちこの時点で、「死」が確定する。

 霊的世界の人間が、新たに神性を体験したいと希望すると、物質的世界に行く(輪廻転生)。

 その時にも、神の「聖なる審問」を受ける。

(4)前世・現世・来世[編集]

 魂は、自己を完成させるために、現在の人生(現世)を通じて神性を体験するが、その人間の個体で体験すべき課題が完了すると、身体から離れて(死)、霊的世界(来世)に行く。[21]

 そして、さらに神性の新しい体験を希望・意図したときに、再び現世に戻って、別の人間に宿る。

 前世とは、その魂がそれ以前に生きた現世をいう。

 魂には、前世の全ての体験が、記憶されている。

(5)輪廻(りんね) [編集]

 人間が死んでから、来世(霊的世界)に魂は行くが、魂の内包する概念としての神性が、完全に体験されないでいる間は、再び現世に戻って、それを完遂するために、また新たな人生を歩む。その時、魂が宿る人間は、前(前世)とは違った人間である。[22]

 これを繰り返すことを、輪廻という。

 著者のニール氏は、648回目の人生(現世)を、現在、歩んでいる。すなわち、すでに647通りの前世を生きているのである。

 それを繰り返して、神の分身としての魂に与えられた、すべての神性を実体験して完成したときに、その魂は神に帰一し、一体化する。

 神と一体化した後、それは再び高次の次元で分化する。この分化と帰一は無限に繰り返される。これが、いわば神の呼吸なのである。

(6)堕落・原罪・地獄[編集]

 キリスト教の教義では、「神の創造した宇宙は地上界と霊界から成り、人間は地上界での人生を通して人格を完成して地上天国を築き、死んだ後、霊界に天上天国を築くように創造された。ところが、人間始祖の堕落により原罪を負った人間が繁殖し、地上界を支配することにより、地上、天上ともに天国の実現が不可能となった」と説かれている。[23]

 『神との対話』では、「エデンの園の神話」は、人間始祖の堕落ではなく、神の「最初の祝福」を意味しているといっている。

 聖書にある「善悪を知る木の実を食べた」という出来事は、アダムとイヴで象徴される最初の人間が、相対的世界(現実世界)で、善なることと悪なることを自らの自由意志で選択し体験し始めたという、祝福すべき船出を意味しているのである。[24]

 したがって、人間始祖の堕落は存在せず、人間に原罪はない。

 キリスト教の教義では、この世(地上界)で、悪事を行った人間は、死んでから霊界に存在する地獄に行くといっている。霊界には、天国と、悪魔が支配する地獄の二極の領域(場所)があり、天国と地獄の中間に、煉獄、リンボーがあるとされている。

 『神との対話』では、霊的世界には天国のみがあり、キリスト教が説くような地獄はないといっている。[25]

 地獄は、霊的世界の「場所」として存在するものではなく、低次の魂が自分自身で創り出し、経験するものである。すなわち、地獄という場所はないが、地獄の経験はあるというのである。

生活[編集]

(1)人間関係[編集]

 人間関係は、自分と他人との関係性の中で、自分自身を表現し、神性を体験することのできる最も重要な場である。人間関係の中で提供される出来事に対して、「自分はどうありたいか」を選び実行することにより、本当の自分になっていくのである。[26]

 すべての人間関係を、自分を創りあげる機会であるとはっきり理解すれば、すべての人間的出会い、とりわけ個人的な人間関係を、素晴らしいものと思うようになる。

 様々な人間関係の中にあっても、他人の考えを尊重はしても、自分の体験や実感は、それ以上に大切にすべきである。

 他人の目を気にして、他人の好むような行動ばかりを取っていると、他人の人生を歩んでしまうことになる。

(2)愛 [編集]

 愛は無条件、無制限で、何も必要としない。[27]

 ほとんどの人々が、愛と必要性を混同している。

 必要性とは、自分のものではない何かが自分の外に存在し、幸せになるにはそれが必要だということである。

 誰かを愛し、同時に必要とすることはあっても、必要だから愛するというのは、本当の愛ではない。必要だから愛するなら、それは相手を愛しているのではなく、相手が与えてくれるものを愛しているのである。

 何かを与えてくれようとくれまいと、相手自身を愛するなら、その時は本当に相手を愛しているといえる。何も必要としないなら本当の愛なのである。

 愛は、神の本質であり、神そのものといえる。

 完璧な愛とは、色彩でいうと完璧な白のようなものである。白とは色がないことのように思いがちであるが、白は存在するあらゆる色が融合したものなのである。

 それと同じように、愛とは、慈しみ、寛容、赦し、謙虚、信頼、忍耐、誠実などの感情に加えて、憎しみや怒り、情欲、嫉妬、羨望なども包含した、あらゆる感情の総和なのである。

 魂が完璧な愛を体験するには、それらのあらゆる感情を体験しなければならないのである。

(3)セックス [編集]

 愛により一体化したいという思いが、セックスにより成就し、その結実として、新しい生命(子供)が産まれる。

 セックスは、生殖を意図する場合に限られるということはない。生殖を意図しないセックスも、何ら不条理なことはなく、一体化する喜びを与えてくれるのである。[28][29]

 ただ、真の愛のない肉欲だけのセックスは、魂の成長にとっては益が少ないといえるのである。

(4)ジェンダー(社会的文化的性別)[編集]

 神は宇宙創造において、男性優位として人間を創造してはいない。[30]

 男性優位の文化を造り上げたのは、既成宗教である。

 それぞれの性がそれぞれ特有の性質をもつのであって、どちらが優秀かということではない。

(5)価値 [編集]

 価値は、個人が目指す目標を達成するのに、有益か無益かで決まる。有益なものを価値があるといい、無益なものを価値がないというのである。[31]

 したがって、目指す目標の違いによって、個人の価値観は変わってくる。財産家になることが目標なら、金もうけに価値を見いだすが、魂の成長を目標とする者にとっては、それはあまり価値がない。

 人間には、多様な価値観があり、全ての人間は、自分の抱く価値観にのっとって生きている。

(6)宗教[編集]

 すべての宗教は、神に至る道を教えている。その道は数限りなくある。それらの道のどれもが、数限りない道の内の一つであり、どれかがより優れているということはない。[32]

 民族においても、他の民族より優れている民族、いわゆる「選民」というものはない。

 神は、すべての人間に平等に語りかけ、導いている。マスター(師)を通して、芸術や科学を通して、自然を通して、そして本人の魂の叫びを通して、神は絶えず語りかけている。問題は、それに人間が気付くかいなか、聴こうとするかどうかなのである。

 宗教集団には時として、自分を「救世主」とか「真の親」とか名乗る者が現れる。そういう者からは、なるべく早く逃げるほうが得策である。真のマスター(師)は、自分を崇めよとはいわず、多くの人々をマスターに育てる者だからである。[33]

(7)エゴ[編集]

 『神との対話』では、「魂-精神-身体」からなる人間のうち、「精神-身体」からなる部分を「エゴ」といい、「魂-精神-身体」からなる全体を、「真なる自分」と表現している。[34]

 「エゴ」は、神性を体験するための不可欠なツール(道具)であって、大切にしなければならないが、「エゴ」が大きくなり過ぎると、神性を体験しているという、人生の本質的な目的を見失ってしまうきらいがある。

(8)金銭[編集]

 金銭は、人生を生きるためのツール(道具)の1つである。

 すべての物事についていえるが、金銭自体には、「正邪」も「善悪」もない。[35]

 人間が過去に経験した金銭にまつわる邪悪な側面が、少しずつ人々の心に浸透していき、「金は汚いもの、邪悪なもの」という先入観が人間に植え付けられてきたのである。

 金銭にまつわる多くの問題を解決する1つの手段は、金銭の「見えない」という悪弊をなくすことである。[36]

 金銭の授受がオープンにされれば、労使や性別による賃金格差、社会的貧富の差、先進国企業による途上国での利益取得などについては、その不公正さ、不公平さが暴露され、大きな変革をせまられることになるだろう。

(9)善悪[編集]

 「善悪」は、キリスト教教義のいう、神とサタン(悪魔)が対峙するという二元論的なものではなく、物事の有益性を相対的に表したものである。物事の目的にかなった有益な考えや行為は「善」となり、その反対は「悪」となるのである。

 「善悪」は、神がその基準を押し付けるものではなく、人生において人間自身が築き上げていくものなのである。[37]

 もし神が「善悪」の基準を押し付け、それをもとに判断を下せば、自由意思を持った人間を通して「自らの神性」を体験するという、神の本来の創造目的が損なわれてしまうのである。[38]

(10)後悔と罪悪感[編集]

 「後悔」は、悔い改めてやり直そうという、成長にプラスとなる気づきを与えてくれる。[39]

 一方、「罪悪感」は、悪いことをおかした自分はダメな人間だという、自分を否定するネガティブな思考である。

 「罪悪感」を持つ必要は全くない。自分はダメな人間だと卑下することは、自分の成長にプラスにならないのである。

 良いことでも悪いことでも、過去のことは手放し、さらなる成長に向けて、新たな一歩を踏み出すのである。[40]

 そうしていれば、悪いと思うことをおかした状況と同じような出来事が、いつしか人生に用意され再び出現する。

 その時、自分の思い描く最高のビジョン、最大バージョンで考え、行動するのである。それによって新しい自分を創造していくのである。

(11)羨望と嫉妬[編集]

 「羨望」は、さらに向上しようという動機づけとして働く。[41]

 一方、「嫉妬」は、ベースに不安があり、自分や他人の成長を妨げる。

 「羨望」は成長に好ましい感情であるが、「嫉妬」は人を殺してしまうのである。

 小児期に、「羨望」が親に否定され続けると、「嫉妬」に変質してしまう。

 不安は愛と対極をなす感情で、これらがアクセルとブレーキのように協調的に働いて、人間は生活している。

 現代社会では、感情が不安に偏り過ぎている。教育や社会のあり方を、愛を基本としたものにすべきなのである。

(12)自殺と尊厳死[編集]

 既成宗教の多くでは、「自殺」は禁止されている。

 『神との対話』では、「自殺者は神に罰せられることはない」といっている。[42]

 しかし、自殺自体に問題がないわけではない。

 人生の課題を完了せずにのがれたとしても、再び物質的世界の、のがれようとした状況に戻ってきて、また一からやり直すことになるのである。[43]

 さらに死の過程の第2段階で、個人は、死ぬときに抱いていた信念を体験する。[20]自殺するほどの悲惨な心理状態を反映する世界は、地獄という場所はないにしろ、地獄に似た体験をするともいえるのである。

 死にゆく過程に起きる苦しみと尊厳の喪失から、本人を解放するために死を早めること(尊厳死)は、自殺とは全く別のことである。[44]

(13)教育[編集]

 『神との対話』には、「教育」のあり方への提案が、次のように書かれている。

①産む人間と育てる人間が、同一の人間でなければならないことはない。[45]

②知識ではなく智恵を教える。[46]

③霊性を教え育てる。[47]

(14)自由 [編集]

 人間は日常生活の中で、様々な物事を自由意志で選択することによって、無限にある神性を体験していく。

 自由の最大の行使を通じてのみ、人間(魂)の最大の成長が達成される。[48]

 自由は、神と魂の本質である。[49]

 他人によって自分の自由が制限されるなら、他人のルールで生きることになる。それは他人の人生を生きることにほかならず、自分自身の成長にはならないのである。

(15)自己啓発[編集]

 『神との対話』には、自己啓発について、次のように書かれている。

①今日のあなたは、昨日のあなたではない。過去のことにいつまでも執着しないで、それを手放し、新しく出発する。[50]

②他人より優れようとするのではなく、過去の自分より優れようとしなさい。[51]

③毎日起きる出来事に対して、自分はどんな「存在」でありたいかを考え、そのありたい自分になろうと努力する。[52]

④失敗したとしても、自分はもうだめだとあきらめたり、無力感や罪悪感にひたる必要は全くない。[53]

⑤根になる固定観念をいちばん速く変える方法は、「思考-言葉-行為」というプロセスを逆転させることだ。[54]

⑥あなたの高いヴィジョンにそぐわない考えが浮かんだら、その場で「新しい考え」に変えなさい。[55]

⑦他人を卑下する思いがわいた時、自分自身の中に巣くう劣等意識を改めるべきだ。[56]

⑧人間の目指すべき手本は、イエス・キリストに示されている。[57]

⑨成長するには、なるべく自分より高い意識の人間と交わるべきだ。[58]

⑩物事を選択するとき、全力をあげて心から選択し、それが現実になるまでは、気持ちをそらさないことだ。[59]

⑪決意するときに考えるべきことはただひとつ、それが「わたし自身」を表現しているだろうか、ということだ。[60]

⑫こんな目にあうのは「自分の責任だ」と思ったとき、はじめてその物事を変える第一歩となる。[61]

⑬他人に心から与えれば、自分も豊かになる。[62]

⑭人生でほんとうに大切なのは力ではなく強さだ。[63]

⑮どんな時にも決して希望を捨ててはいけない。[64]

⑯仕事を選ぶ時に唯一考えるべきことは、「自分を表現できる仕事かどうか」ということだ。[65]

⑰何事においても、やり過ぎはいけない。[66]

(16)社会変革[編集]

 『神との対話』には、社会変革について、次のように書かれている。

①高度に発達した科学技術は、今や、人間のコントロール能力を超えようとしている。[67]

②人間が「霊性」の復興なしにこのまま行けば、自滅の道を行く危険がある。[68]

③温暖化など近年の地球環境の激変は、地球を破壊し続ける人類を拒絶しようとしている、地球自体の適応現象だ。[69]

④人類の進化の程度は、まだほんの序の口だ。[70]

⑤人類は歴史上で、一度、進歩に失敗したことがある。再び失敗する危険も大いにある。[71]

⑥社会の目指す方向が人間の魂の成長にあるとするなら、現代社会の価値観は目指すところには連れて行ってくれない。[72]

⑦細胞レベルに組み込まれた神性への人間の衝動は、いくら抑え込んでも、抑えられない。それを無理矢理排除しようとする政府や国家は、結局、それが不可能だと分かる。[73]

⑧人間には、生まれもった独特な個性や個別性があり、同じ人間は一人だにいない。全ての人間は、「平等」ではなく「公平」であるべきで、社会システムもそれを保証するものであるべきだ。[74]

(17)心身の健康[編集]

①タバコやアルコールは、身体の健康を害する。[75]

②化学物質(人工生成物の農薬や抗生物質、防腐剤、食品添加物など)の入った食事を食べていると、知らないうちに身体は害されている。[76]

③運動は身体にとって大切なもので、毎日、運動すべきだ。[77]

④時々「瞑想」をして、自分の内側に入るべきだ。内側に入っていけば、自分の外側に何も必要でない自分を知ることができる。[78]

(18)経済[編集]

 『神との対話』には、経済について、次のように書かれている。

①資本主義システムと制度は、金持ちと権力者がつくったものだ。支えているのも、金持ちと権力者だ。[79]

②社会の目指す方向が、人間の魂のより高位への成長にあるとすれば、現代社会の商業主義的な価値観はおかしい。[80]

③ごくわずかな人びとが世界のお金と資源の大半を支配する時代は終わる。[81]

④天然資源は全人類の共有財産で、全人類が全人類の最高の利益のために活用すべきだ。[82]

⑤将来、所有という言葉や概念はなくなるだろう。つまり「自分の土地、財産」というような「所有」という考えは、社会からなくなる。[83]

⑥地球上の人間が、「すべては一体である」という新しい福音を受け入れ、そのように生きれば、生存競争は必要なくなる。[84]

⑦これからの経済システムは、「透明性」を確保すべきだ。つまり新しい経済システムのキーワードは、「見える」という性質だ。[85]

⑧富とは所有することではなく、アクセスつまりみんなが利用可能なことだ。[86]

⑨所得に下限があるように、上限も設けられるべきだ。[87]

⑩経済は地方化するだろう。経済も、コミュニティを基本にして、小さな経済圏を創るべきだ。[88]

⑪すべてがはっきりと見え、記録をたどることができて、数字を確認できる、オープンな国際通貨制度をつくるべきだ。[89]

『神との対話』の内容とキリスト教教理の相違点[編集]

堕落と原罪[編集]

キリスト教では、人間の始祖である、アダム(男)とエバ(女)が、エデンの園で、神から取って食べてはならないと言われた、善悪を知る木の実を、ヘビの誘惑によって、食べるという罪を犯し、堕落したため、それ以後の子孫は、生まれながらに原罪を負って、生まれている、と説く。ヘビも堕落して悪魔となった。

『神との対話』では、エデンの園の神話の本質は、神の最初の祝福を、表現していると説く。

人間は魂の乗り物として、人生で神性を体験していく。魂の宿った最初の人間は、相対的世界で、ゼロから神性の体験を始める。善悪を知る木の実を食べたということは、相対的世界の体験を、人間が始めたという祝福すべき船出を意味している。

人間に原罪はなく、悪魔は存在しない。

キリストと救済[編集]

キリスト教では、原罪を生まれながらに持っている人間を救済するために、神から、イエスキリストが遣わされた。

イエスキリストは、罪人(人類すべて)の罪を、自らが背負って、十字架上で亡くなり、3日目に復活した。そのイエスキリストを、信じることによって、人間は原罪から解放され、神に許される、というのが、キリスト教の救済論である。

『神との対話』では、神は絶えず、魂を通して、自然を通して、多くのマスター(師)を通して、人間を導いているという。マスターとは、輪廻を繰り返して、神性を体得し、悟りのレベルに到達した、魂(の宿った人間)をいう。

イエスキリストは、マスター(師)のうちでも、最高のマスターの一人であるといっている。そして、イエスキリストを信じて求める者には、今も霊的に、導いているといっている。

輪廻と地獄[編集]

一般的なキリスト教では、輪廻は、説いていない。人間は、死ねば、霊界に行き、その人間の生き方の良否によって、それぞれ、天国、地獄、煉獄(天国と地獄の中間)に、行く。

大罪を犯し、イエスキリストによる贖罪(罪のあがない)を受けなければ、地獄に行くと、教えている。

『神との対話』では、輪廻を説いている。現世で神性を体験した魂は、死んで来世に行く。その魂が、さらなる神性の体験を希望した時、現世に戻ってくる。これを繰り返す(輪廻)といっている。

『神との対話』では、地獄は、存在しているものではなく、来世において、魂の最低の成長レベルによって、自ら創り出し、経験するものだと、いっている。

選民と宗教[編集]

旧約聖書には、人間始祖のアダムとエバ以後、その子孫が増えて、ユダヤ民族となり、堕落によって追放されたエデンの園に、再び帰っていく歴史が書かれている。

ユダヤ民族は、神の国を建設するべく、神に選ばれた民族で、それを選民といっている。

『神との対話』では、旧約聖書は、一民族での歴史的物語で、人間始祖は、地球上の複数の地で誕生しているといっている。

そして、神にとって特別な民族というものは無く、すべての人間、民族が、神にとっては、神の分身という特別な存在であり、神性を体験する道を、等しく歩んでいるという。

宗教はどの宗教も、神に至る道を教えているといっている。しかも、どの宗教にも優劣はなく、すべての宗教が、神に至る道を示す、一つの教えだといっている。

脚注[編集]

  1. ^ 武本昌三 「Walsch : Conversations with Godについて」 跡見学園女子大学短期大学部紀要 37, 15-40, 2001-03-10
  2. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P12,サンマーク出版,1997.
  3. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P27,サンマーク出版,1999.
  4. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P400,サンマーク出版,1999.
  5. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P236,サンマーク出版,1997.
  6. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P39,サンマーク出版,1997.
  7. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P43,サンマーク出版,1997.
  8. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P247,サンマーク出版,1997.
  9. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P219,サンマーク出版,1999.
  10. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P130,サンマーク出版,1999.
  11. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P166,サンマーク出版,1999.
  12. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P302サンマーク出版,1998.
  13. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P323,サンマーク出版,1999.
  14. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P67,サンマーク出版,1997.
  15. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P137,サンマーク出版,1999.
  16. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P46,サンマーク出版,1997.
  17. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P52,サンマーク出版,1997.
  18. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P322,サンマーク出版,2007.
  19. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P247,サンマーク出版,1997.
  20. ^ a b ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P169,サンマーク出版,2007.
  21. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P36,サンマーク出版,2007.
  22. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P170,サンマーク出版,1999.
  23. ^ 5. 罪による堕落~サタンと人間の反逆|聖書の教え”. 2018年4月8日閲覧。
  24. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P80,サンマーク出版,1997.
  25. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P60,サンマーク出版,1997.
  26. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P164,サンマーク出版,1997.
  27. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情上.P186,サンマーク出版,2000.
  28. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.282,サンマーク出版,1997.
  29. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P119サンマーク出版,1998.
  30. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P108サンマーク出版,1998.
  31. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P308,サンマーク出版,1999.
  32. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情下.P149,サンマーク出版,2000.
  33. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:新しき啓示.P109,サンマーク出版,2003.
  34. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情上.P97,サンマーク出版,2000.
  35. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P220,サンマーク出版,1997.
  36. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P237サンマーク出版,1998.
  37. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P430,サンマーク出版,1999.
  38. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P59,サンマーク出版,1997.
  39. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情上.P261,サンマーク出版,2000.
  40. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情上.P106,サンマーク出版,2000.
  41. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P268サンマーク出版,1998.
  42. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P113,サンマーク出版,2007.
  43. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P118,サンマーク出版,2007.
  44. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P125,サンマーク出版,2007.
  45. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P48,サンマーク出版,1999.
  46. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P150サンマーク出版,1998.
  47. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P159サンマーク出版,1998.
  48. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P135サンマーク出版,1998.
  49. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情下.P100,サンマーク出版,2000.
  50. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P115,サンマーク出版,1999.
  51. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P113サンマーク出版,1998.
  52. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P33サンマーク出版,1998.
  53. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P52,サンマーク出版,1997.
  54. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P222,サンマーク出版,1997.
  55. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P107,サンマーク出版,1997.
  56. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情上.P96,サンマーク出版,2000.
  57. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P47サンマーク出版,1998.
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  60. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P33サンマーク出版,1998.
  61. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P55,サンマーク出版,1997.
  62. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P33,サンマーク出版,1999.
  63. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P64,サンマーク出版,1999.
  64. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神へ帰る.P192,サンマーク出版,2007.
  65. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P253,サンマーク出版,1997.
  66. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P399,サンマーク出版,2006.
  67. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P334,サンマーク出版,1999.
  68. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P73,サンマーク出版,2006.
  69. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P106,サンマーク出版,2006.
  70. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P185,サンマーク出版,1999.
  71. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P334,サンマーク出版,1999.
  72. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P375,サンマーク出版,1999.
  73. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P285,サンマーク出版,2006.
  74. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P282,サンマーク出版,1999.
  75. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話.P259,サンマーク出版,1997.
  76. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P235サンマーク出版,1998.
  77. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神とひとつになること.P211,サンマーク出版,2001.
  78. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P201,サンマーク出版,1999.
  79. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P281,サンマーク出版,1998.
  80. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P375,サンマーク出版,1999.
  81. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P326,サンマーク出版,2006.
  82. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P329,サンマーク出版,2006.
  83. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話③.P357,サンマーク出版,1999.
  84. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との友情下.P207,サンマーク出版,1999.
  85. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P241,サンマーク出版,1998.
  86. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P314,サンマーク出版,2006.
  87. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P271,サンマーク出版,1998.
  88. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:明日の神.P326,サンマーク出版,2006.
  89. ^ ニール・ドナルド・ウォルシュ:神との対話②.P240,サンマーク出版,1998.

外部リンク[編集]

『神との対話』との対話

Summary of "Conversations with God"

関連項目[編集]