祖逖

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祖 逖(そ てき、266年 - 321年)は、西晋から東晋にかけての武将。字は士稚范陽郡遒県の人。父は祖武。兄に祖該、祖納。弟に祖約。子に祖渙、祖溢、祖淮、祖汲、祖道重など[1]。東晋初期の名将であり、後趙と争って黄河以南の地を奪還した。

生涯[編集]

若き日[編集]

彼の祖先は代々二千石の官位を輩出する北方の名家であった。父の祖武は晋王上谷郡太守を歴任したが、祖逖が幼い時に亡くなった。彼の兄弟は6人おり、みな立派な才覚を有していた。祖逖もまた度量は広かったが、自由奔放な性分であり、学問を修めなかった。14歳になっても書を読む事がなかったので、諸兄は長く頭を悩ませていたという。しかしながら、祖逖は財にはあまり執着せず、義侠心正義感に溢れ、高い志を有していた。いつも田舍に出向くと兄の意思であると偽って、穀物やを貧しい人に配り周った。そのために、郷里の人や宗族は彼を甚だ重んじた。成長すると書物に多く目を通すようになり、古今のものを尽く読み漁った。洛陽へ往来すると、彼を見た者はみな、祖逖は賛世の才(世の中を正す才能)を有していると言ったという。琅邪王氏一門の王玄とも交流があった。

中原の混乱[編集]

後に陽平に移住し、24歳の時に陽平からは孝廉として、司隸からは秀才として推挙されたが、いずれも応じなかった。

劉琨と共に司州主簿となり、さらに斉王司馬冏の大司馬掾となり、次いで長沙王司馬乂の驃騎祭酒となった。

303年、驃騎主簿に移った。成都王司馬穎・河間王司馬顒は司馬乂討伐の兵を挙げると、配下の張方に7万を与えて洛陽へ侵攻させた。11月、祖逖は司馬乂へ「雍州刺史劉沈は勇敢な忠臣です。雍州の兵を使えば河間(司馬顒の事)を牽制できるでしょう。劉沈に長安の司馬顒を攻撃させれば張方も兵を退くはずです」と勧めると、司馬乂はこれに従って劉沈に雍州郡県の兵1万人余りを率いさせて長安を攻撃させた。その後、祖逖は太子中舎人、豫章王従事中郎を歴任した。

304年7月、東海王司馬越が司馬穎討伐のために、恵帝を奉じて決起すると、祖逖もこれに従軍した。だが、恵帝の軍勢が蕩陰で敗れると洛陽へと引き返した。張方が恵帝を伴って長安への遷都を強行すると、関東の諸侯である范陽王司馬虓・高密王司馬略・平昌公司馬模らは競って祖逖を招集したが、いずれも応じなかった。司馬越もまた祖逖を典兵参軍・済陰郡太守に任じたが、母のであるとして従わなかった。

311年6月、永嘉の乱により洛陽が陥落すると、祖逖は親族や郎党数百家を連れ、淮河泗河一帯へ逃れた。道中、車馬に老人や病人を乗せて自らは徒歩で進み、薬や衣服食糧は他者に分け与えた。祖逖は機略に長けていたので、みな祖逖を主に推戴した。泗口に到達すると、琅邪王司馬睿(後の元帝)により徐州刺史に任じられた。その後さらに軍諮祭酒に任じられ、丹徒の京口に住居を構えた。

彼は多くの義士を賓客として迎えており、凶暴で勇猛な者が多くいたが、彼らを子弟のように厚遇していた。当時、揚州は大飢饉に見舞われており、彼らの多くは群盗となって富豪の家を襲撃していたが、祖逖は彼らを慰撫して「南塘(当時の富裕層の居住区)で罪を犯せば、我らはまた去らねばならなくなるぞ」と諭した。また、官吏に捕まった者に対しては祖逖自ら弁護を行い、彼らを釈放させた。この事で祖逖を謗る者もいたが、彼自身は自若として気にしなかった。

北伐行へ[編集]

前趙の侵攻により洛陽が陥落して以降、祖逖は常に祖国復興の志を胸に抱いていた。だが、司馬睿自身は江南を平定したばかりである事から、北伐を考えてはいなかった。313年、祖逖は上表して「晋室が乱れたのは、上の無道ではなく、下の怨叛によるものです。藩王が権力を争い、互いに滅ぼし合っていたが故に、遂に戎狄(異民族)が隙に乗じて中原に毒を流しました。今、遺黎(中原に残された民)が残酷な目に遭っており、この地の人々はみな、奮撃の志を持っております。殿下(司馬睿)は威を発し、将に命を下す事が出来る立場であります。もしこの逖を統主にしていただければ、郡国の豪傑は必ずやその風向へ赴き、沈溺の士は来蘇(その到来により百姓の苦しみを救い、活気を蘇らせる事)を喜ぶことでしょう。願わくばこの事をよく考え、国恥を雪がん事を」と進言した。

これを受け、司馬睿は祖逖を奮威将軍・豫州刺史に任じ、千人分の糧食と三千匹の布を与えたが、兵士と武具は与えられなかった。そのために、祖逖は自らこれらを調達しなければならず、ひとまず私兵百家余りを引き連れて長江を渡った。中流まで進むと、を川面に打ち付け「この祖逖、もし中原を清められず、民を救済出来なかったならば、この大江のように二度と戻らん!(川は上流から下流へ進み、逆には進まない事を指す)」と誓った。その言葉と顔色には壮烈なものがあり、兵は皆感嘆した。その後、江陰に駐屯すると、兵器を鋳造し、徴兵して二千人余りを集めた後、再び進軍を開始した。

豫州奪還[編集]

これより以前、北中郎将劉演前趙の将軍石勒を阻んでいた時、流民の張平樊雅塢壁を築き、その塢主となった。劉演は張平を豫州刺史に、樊雅を譙郡太守に任じた。また、董瞻于武謝浮ら十部余りは各々数百の兵を擁しており、みな張平の支配下にあった。司馬睿は行参軍桓宣を派遣し、彼等の説得に当たらせると、両者とも恭順の意を示した。 

祖逖は廬州に駐屯すると、参軍殷乂を張平らの下へ派遣した。だが、殷乂は張平を内心軽視しており、その屋敷を見ると「これは厩舎にすればよい」と言い放ち、鼎鑊(釜の一種)を見て「これを溶かせば兵器となるな」と言った。張平は怒り「これは帝王の鑊である。天下が治まった時、民を統べるために用いる。どうして潰すことが出来ようか。」と言い返すと、殷乂はさらに「卿は我が身を守ることさえできないのに、ただ鑊だけを大切にするのか!」 と詰った。張平は激怒して即座に殷乂を斬り殺し、守りを固めて祖逖と対立する構えを見せた。祖逖は張平と争い、抗争は1年に渡って続いた。

317年、祖逖は謝浮と密かに連絡を取り、張平を攻撃するよう持ち掛けた。謝浮はこれに応じて張平を宴席に呼び出し、その席中にて斬り殺した。そして、その首級を祖逖に献上した。

司馬睿はこの勲功を喜び、祖逖の下へ兵糧を輸送するよう命じた。だが、遠く離れていたので到る事はなく、祖逖軍は兵糧が底を突いて飢えに苦しんだ。

その後、祖逖は太丘に軍を進めた。樊雅は譙城を保って祖逖と対抗し、争いは長期に渡った。祖逖はその軍勢が樊雅と比べて少なかったので、南中郎将王含に援軍を求めた。王含はこれに応じ、桓宣に兵500を与えて祖逖の救援に向かわせた。

樊雅は機を見計らって夜襲を仕掛け、兵を砦に侵入させると、戟を抜き大声を発し、一直線に祖逖の陣を急襲した。祖逖軍は大混乱に陥ったが、祖逖はひるまずに側近に撃退を命じた。督護董昭は指揮を執って樊雅軍を迎え撃ち、次第に形勢を逆転させた。遂に樊雅が敗走し始めると、祖逖は自ら兵を率いて追撃に出た。張平の残兵は樊雅を援護し、祖逖を攻撃した。この時、蓬陂の塢主である陳川は寧朔将軍・陳留郡太守を自称して勢力を保っており、祖逖は陳川に使者を派遣して援護を求めた。陳川はこれに応じ、配下の李頭に兵を与えて救援に当たらせた。祖逖は李頭軍と力を合わせ、大いに敵軍を破った。

祖逖は桓宣へ「卿の信義は知れ渡っている。樊雅を説得してくれないか」と要請し、桓宣を使者として樊雅の下へ派遣した。桓宣は樊雅へ「祖豫州の目的は劉聡や石勒を滅ぼす事であり、卿の助力を望んでいる。以前、殷乂が軽薄に振る舞ったのは、祖豫州の意思ではないのだ」と説くと、樊雅は再び祖逖へ帰順した。

祖逖が譙城に入ると、桓宣らは軍を帰還させた。その後、石虎が兵を率いて譙城を包囲すると、王含は再び桓宣を祖逖の下へ派遣し、石虎はこれを知ると撤退した。桓宣はそのまま祖逖の下に留まり、祖逖は彼を譙国内史に任じるよう上表した。その後、祖逖は未だ帰順していない諸々の塢壁の討伐を行い、桓宣はその援護を行った。

6月、晋王司馬睿は天下に檄文を飛ばし「石虎は兵を率いて黄河を難かし、天下を蹂躙している。今、琅邪王(司馬裒)を始め九軍の精鋭兵三万を水陸四路から進ませ、賊を討つことを決めた。志を持つ者は、これに加わる祖逖の指揮下へ入るように」と宣言した。だが、しばらくして司馬睿はこれを取りやめ、司馬裒を建康へ帰還させた。

後趙との争い[編集]

李頭は樊雅討伐の際、力戦して勲功を挙げた。祖逖は樊雅の駿馬を獲得しており、李頭はこれを欲しいと思ったが口には出さなかった。祖逖は李頭の心中を察して惜しむ事なく与えたので、李頭はこの恩遇に感じ入り、いつも「このような人物が主であったらば、いつ死んでも怨む事はない」と口にしていた。陳川がこの事を知ると、大いに怒って李頭を殺害した。この為、李頭の側近である馮寵は、四百人余りを連れて祖逖の下へ去った。陳川はさらに怒り、配下の魏碩に豫州の諸郡を荒らし回らせ、子女や車馬を多く略奪した。祖逖は将軍衛策を派遣して穀水で魏碩を撃破し、魏碩に連行されていた人民を奪還して全て家に帰らせた。この時、軍には誰一人として私欲に走るものはいなかったという。

319年4月、陳川は大いに恐れ、遂に兵をまとめて石勒に帰順した。祖逖は陳川討伐に向けて兵を興し、蓬関で敵軍と衝突した。石虎が兵五万を率いて陳川救援の為に到来すると、祖逖は浚儀に伏兵を置いて奇襲を掛け、大勝した[2]。石虎は敗残兵を纏めると豫州で略奪を行った。さらに桃豹を蓬関に送り込み、祖逖を攻撃させた。桃豹は祖逖を破って督護陳超を捕え、祖逖は淮南郡まで退却した。石虎は陳川を襄国に送還し、桃豹に陳川の故城を守らせ、西台を拠点とした。

320年6月、祖逖は将軍韓潜を派遣して陳川の故城に入らせ、東台を拠点とした。こうして両陣は東西の台を拠点に睨み合うようになった。桃豹は南門から出入りし、韓潜は東門から出入りし、両軍は40日余り対峙した。祖逖は布袋に土を詰めて米のように見せ、1000人余りを使って台上に運び、桃豹に見せつけた。また、同時に数人に米を担がせて道中で休憩しているように見せ、桃豹軍が来ると米を棄てて逃走させた。桃豹はこれによっり兵糧を得たが、さらに上台に米が次々と運ばれている事を知ると、祖逖軍に充分な食糧があると思い込んだ。桃豹軍は食料が乏しかったため、大いに恐れて戦意を喪失した。石勒配下の劉夜堂は驢馬千頭を使って桃豹に食糧を送らせたが、これを察知した祖逖は韓潜と馮鉄に命じて汴水でこれを奪った。遂に桃豹は夜に乗じて城を離れ、東燕城に撤退した。祖逖は韓潜を封丘に進軍させて桃豹を圧迫し、馮鉄を東西の二台を守らせ、祖逖自身は雍丘に進んだ。さらに軍を派遣して後趙の拠点を幾度も攻撃し、後趙軍は次第に疲弊していった。こうして後趙の多くの城郭が東晋に帰順した。祖逖の攻勢が強まると、石勒は精騎兵一万を繰り出して対抗したが、祖逖はこれを撃退した。これにより、後趙の兵士で祖逖に帰順する者が、さらに多くなった。

ある時、斥候の騎兵が濮陽の民を捕らえたが、祖逖はこれを厚く持て成して帰らせた。そのため、濮陽の人民は皆その恩徳に感じ入り、郷里五百家を伴って祖逖に帰順した。

同時期、趙固上官巳李矩郭黙らは策略と兵力を尽して争い合っていた。祖逖は各々に使者を派遣し、利害を説いて和解を図った。彼らは同意して祖逖の傘下に入った。

7月、詔が下され、祖逖は鎮西将軍に昇進した。

黄河以北の塢主は皆後趙に人質を出していたが、祖逖は彼らが東晋と後趙に両属する事を許した。また、たまに形式的に攻めるようにし、彼らが後趙から疑われるのを防いだ。諸塢主は祖逖に恩義を感じ、後趙の機密を密告するようになった。この事が祖逖軍には大いに有利に働いた。こうして塢主や民衆の多くが後趙から離反し、黄河以南は尽く東晋の領土となった。

祖逖は兵の訓練に励み、穀物を集めて、河北奪還を図っていた。石勒はこれを甚だ憂慮し、幽州政府に命じて成皋にある祖逖の先祖や父母の墓を修築させ、墓守として二家を置かせた。更に石勒は祖逖に手紙を送り、使者の交換と交易の開始を要請した。祖逖は手紙を返さなかったが、互いに市を開いて通商を始めることを黙認した。これによりこれまでの十倍ともいえる多くの利益を得ることができた。

ある時、祖逖の牙門童建が新蔡内史周密を殺して後趙に降ったが、石勒は童建を斬ると、首を祖逖に送り「我は叛臣や逃吏を最も憎む。将軍(祖逖)が嫌う者は、我が嫌う者と同じである」と伝えた。祖逖はこれに感謝し、後趙を裏切って祖逖に降る者がいても受け入れず、諸将には後趙の民へ乱暴しないよう命じた。また、参軍王愉[要曖昧さ回避]を石勒の下に派遣し、貢物を贈って修好すると、石勒は王愉を厚くもてなした。祖逖は再び左常侍董樹を派遣し、馬百匹、金50斤を贈った。これにより豫州の地は平安を取り戻し、つかの間の平安が実現した。

祖逖の軍は交易により大いに潤い、士馬は日に日に増強されていった。これにより、軍を起こして河を越え、冀朔へ侵攻する準備が整いつつあった。

晩年[編集]

321年7月、朝廷は戴淵を都督司・兗・豫・并・雍・冀六州諸軍事・司州刺史に任じ、合肥防衛を命じた。戴淵は呉では人望が有り才能を有していたが、将来の展望がなかった。祖逖はようやく河南の地を収めたばかりもかかわらず、戴淵がこの地を統治する事となったため、大いに不満であった。さらに、戴淵の赴任は北伐のためではなく、劉隗らが王敦を牽制するためだと判り「今は逆徒を一掃するために、君臣が一丸となって戦わねばならぬのだ。にもかかわらず、宮廷では二派に分かれて権力を争っている。これでどうして戎狄(異民族)を追い払うことができるというのだ!」と大いに憤り、病床に伏してしまった。

その後、妻子を汝南の大木山の下へと派遣した。この時、中原の士庶は祖逖は虎牢に駐屯すると考えていたので、家族を危険な地に留めるのに反対したが、祖逖は聞き入れなかった。祖逖は内心では憂憤を抱いていたが、進軍を止めずに虎牢城に入り、これを修繕した。虎牢城は北を黄河に、西を成皋に接し、四方を遠方まで望む事ができた。しかし、南の防御が心許なかったので、後趙軍がここを強襲してくると判断し、従子である汝南郡太守祖済に命じ、汝陽郡太守張敞・新蔡内史周閎らを率いたせて防壁を築かせた。しかし、完成する前に祖逖の病状が悪化した。

9月、雍丘において急死した。享年56であった。元帝はその功績を称え、祖逖へ車騎将軍を追贈した。

10月、祖逖の弟である祖約が平西将軍・豫州刺史に任じられて兵を継承したが、祖逖の死後、後趙は度々侵略を繰り返すようになった。

322年10月、後趙は襄城・城父の二県を突破して譙を包囲した。祖約はこれを撃退できずに寿春まで退却した。こうして後趙は遂に陳留を奪還し、梁・鄭の地は再び戦禍に見舞われることになった。

人物[編集]

祖逖は軍中では将兵と苦難を共にし、自分を律して軍務や教化に励んだという。また、下級士卒であっても分け隔て無く付き合い、賤民と接する時でもいつ恩礼を以って遇した。士卒に対しては、それが僅かな功績であっても恩賞が日を跨ぐ事は無かった。自ら倹約に努めて農桑を励行すると共に、常に先頭に立って物事を実行した。また、資産を蓄える事は無く、子弟にも耕作を行わせ、薪を背負わせた。朽ちた人骨を収集すると、埋葬を行った後に酒を撒いて祈りを捧げた。百姓達はこれに感動したという。ある時、百姓達が酒を持ち寄って宴会を催すと、中座にあった老人が「我らは老いてしまった!しかし、更にこうして父母を得る事が出来たのだ。例え死のうとも怨む事はない!」と涙を流した。さらに「幸哉遺黎免俘虜、三辰既朗遇慈父、玄酒忘勞甘瓠脯、何以詠恩歌且舞。」と歌い、祖逖を称えた。彼が人心を得ているのはこれほどであった。

祖逖が亡くなると、豫州の士女は両親を失ったように悲しみ、譙・梁の地では百姓が祖逖を偲んで祠を立てたという。

王敦は長らく謀反を考えていたが、祖逖を恐れて動けなかった。祖逖が死去した事により、自らの意のままに動くようになったという。

劉琨との関係[編集]

劉琨とは若い時からの親友で、共に司州主簿となると、寝所を共にするほど親密な関係であった。また、彼らは共に英気があり、いつも世事について議論していたという。ある夜、突然鶏が鳴き声を挙げた。祖逖は隣で寝ていた劉琨を蹴り起こすと「これは凶兆などではない(乱世の兆しであるが、祖逖はこれを名を上げる好機と捉えた)」と言い、起きて舞を踊った。またある夜中、座から立ち上がるとお互いに「四海が沸き立てば、豪傑が並び立つであろう。我と汝は中原を避けよう」と言い合った。

劉琨は出世してからも常に祖逖の事が頭にあり、「私はいつも祖君が私より先に鞭(先鞭)をつけはしないかと心配しているのだ」と人に語った[3]

祖逖が河南で功績を挙げると、劉琨は書を送って盛んに祖逖の威徳を称賛したという。

逸話[編集]

祖逖が病に伏すと、華譚と庾闡は占い師の戴洋に祖逖の寿命を問うた。戴洋は「祖豫州は、9月に卒(逝去)することでしょう」と答えたという。

また、妖星が豫州に現れると、歴陽出身の陳訓も「今年、西北の大将が死すであろう」と人に話した。祖逖もこの妖星を見て「これは我の事であろう!河北を平定すべき時に、天は我を殺そうとしているのか。国を助けするつもりはないと言う事なのか」と嘆いたという。

脚注[編集]

  1. ^ 世説新語
  2. ^ 資治通鑑には石虎に敗れて梁国まで後退したと記載されている
  3. ^ 駒田『新十八史略4』、P84

参考文献[編集]