石橋満博

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石橋満博
時代 室町時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 左衛門佐、信乗、禅門
幕府 室町幕府
主君 足利義教
氏族 石橋氏
父母 父:石橋棟義
兄弟 満博清房?、二条持基室(石橋殿)
治義[1]、清房?、祐義
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石橋 満博(いしばし みつひろ)は、室町時代武将石橋氏3代当主。

概要[編集]

満済准后日記』によると、永享3年(1431年)に、絹の直裰を着ることを足利義教に許されている。

満済准后日記永享4年(1432年)3月29日条によると、足利義教主催の連歌会に山名氏赤松氏畠山氏細川氏一色氏などの人間と共に参加している。また、京都御扶持衆にも加えられていたとされる。石橋氏は、祖父・和義や父・棟義奥州で活躍していたことから、なぜ満博が京都に復帰しているのかは不明であるものの、塩松氏の祖になったと考えられる、弟あるいは子の清房が奥州に、満博が京都にいることで、幕府と奥州をつなぐ役割を期待された可能性がある[2]

建内記嘉吉元年(1441年)11月16日条では、万里小路時房内大臣就任について、当時の関白であり、満博の義兄弟であり、満博邸の近所に邸宅を構えていた二条持基に働きかけている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 遠藤巌「石橋氏」今谷明ほか編『室町幕府守護職家事典 上下巻』(新人物往来社1988年
  • 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6 
  1. ^ 谷口雄太「都鄙における御一家石橋氏の動向」、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室編『中世政治社会論叢』P259-271(東京大学、2013年)
  2. ^ 谷口雄太「都鄙における御一家石橋氏の動向」、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室編『中世政治社会論叢』P259-271(東京大学、2013年)