真田丸

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真田幸村出丸城跡碑(大阪府大阪市天王寺区餌差町心眼寺)
真田丸のあった真田山に鎮座する三光神社境内にある大坂城へ通じていたと伝わる真田の抜け穴跡

真田丸(さなだまる)は、慶長19年(1614年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した曲輪である。

概要

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

1614年、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。

信繁は1600年慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した信濃国上田城(長野県上田市)における上田合戦(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。

12月4日早朝、徳川方の前田利常井伊直孝松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破ることに成功した。

冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。跡地と考えられる場所には、元々あった三光神社が建立されている。

構造

構造は東西180メートルほど、半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置。三方にを配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとして描かれる。

近年の研究では、真田丸のあった上町台地の東側は地形の起伏が激しく、真田丸自身は本城から孤立していた可能性が指摘されている。真田丸を設けた目的は、あえて孤塁を作って徳川軍をおびき寄せることにあったのでは、との説もある[1]

史料

  • 『山口休庵噺』
  • 『慶元記』
  • 『摂津名所図会大成』巻3

関連項目

  • 曲輪#馬出
  • 虎口#馬出
  • 真田山 - 大阪市天王寺区真田山町周辺の地名。真田丸の跡地と考えられるが現在も何処にあったのか謎である。
  • 三光神社 - 真田山に鎮座する神社。境内に大坂城からの抜け穴とされる跡が残っているが信ぴょう性は薄い。
  • どんどろ大師 -大阪市天王寺区に所在する高野山真言宗寺院。「摂津名所図会大成」巻3に拠れば、どんどろ大師の寺誌とともに、「真田丸」跡地の意味である「別堡(でまる)古趾 俗に大師山といふ」という記載がある。同書には、円珠庵の寺誌の内に、「真田別堡古趾」(真田丸跡地)の項目を立て、その説明として、円珠庵より眺望できる、東南の一堆の丘は俗に大師山と称されており、その丘は、一説には真田幸村が籠もった出丸で、捨郭であるとされる。また、出丸は今の清水谷にあったという説があると記載されている。

脚注

  1. ^ 「真田丸」は孤立無縁の砦だった 最新の等高線調査が崩した“定説” あえて敵の大軍を引き寄せた真意とは… 産経WEST2015年1月4日[1]

外部リンク