益田房清
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政3年11月10日(1791年12月5日) |
死没 | 文政9年1月12日(1826年2月18日) |
改名 | 初名:毛利兼清(もうり かねきよ)→益田兼清→益田房清 |
別名 | 通称:吉十郎、丹後 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
父母 | 父:毛利就兼、養父:益田就恭 |
妻 |
正室:佐世親長(就恭実弟)の娘 継室:右田毛利就任の娘 |
子 | 孝子(益田元宣室)、養子:元宣 |
益田 房清(ますだ ふさきよ)は、益田家第31代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家12代。初名は毛利兼清(もうり かねきよ)、益田兼清、のち藩主毛利斉房より偏諱を授与されて房清に改名した。
生涯
[編集]寛政3年(1791年)、吉敷毛利就兼の子として生まれる。寛政12年(1800年)、就恭の養子となり家督を相続する。実父の就兼は右田毛利広定の子で、養父の就恭の母が広定の養女という縁での養子入りであった。まだ幼いため、家老が政務を代行した。就恭の養女(実妹)と婚約するも結婚前に早世したため、就恭の実弟佐世親長の娘を正室に迎え、娘の孝子を儲ける。文化12年(1815年)、大頭(物頭を統括する役職)となり、毛利斉房、斉熙、斉元の3代の藩主に仕える。文政2年(1819年)、国元加判役(国元留守居家老)となる。文化文政の頃、儒学者小国玉淵を用いて、領内の郷学育英館の子弟教育に当らせた。文政9年(1826年)1月12日卒。享年36。家督は右田毛利就任の子・元宣が娘・孝子の婿養子となり相続した。
参考文献
[編集]- 「萩藩諸家系譜」
- 「山口県教育史」