田中安定

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田中安定
時代 江戸時代
生誕 寛永18年(1641年
死没 元禄7年9月29日1694年11月16日
改名 角内→五郎兵衛
別名 五郎兵衛(通称)
戒名 断翁宗果居士
幕府 江戸幕府
主君 織田長頼信武
大和国宇陀松山藩中老
氏族 田中氏
父母 父:田中宗興
兄弟 宗氏、安定
正室:田中正興の娘
市之丞(実父膳所藩士伴角大夫)

田中 安定(たなか やすさだ)は、大和国宇陀松山藩年寄。

家系[編集]

田中家は、遠祖を清和源氏新田氏と称する。織田信雄に中老として仕えた田中清安を初代とし、清安の子宗興、宗興の子宗氏と代々重臣として織田家に仕えた。

生涯[編集]

寛永18年(1641年)、宇陀松山藩中老田中宗興の子として生まれる。延宝7年(1679年)、兄宗氏の隠居により、家督と知行650石を相続。中老として藩主長頼、信武に仕えた。

元禄5年(1692年)、家老生駒則親生駒正純、中老生駒玄矩、組頭大野忠友の重臣5名により、藩主信武の寵臣で、権勢を振るう組頭中山正峯を、公金横領による不正蓄財で訴えるも、信武により退けられる。元禄7年(1694年)9月29日、則親の家督を相続していた家老生駒則正と共に再び正峯を訴え、怒った信武により殺害された。同日、養子市之丞も切腹して家名断絶となる。

この騒動は幕府の耳に入ることとなり、信武は重臣2名の処分の申し開きが出来ずに、同年10月30日、自害してしまう。信武の家督を相続して藩主となった信休は、幕府に騒動の責めを問われ、8000石を減封され、丹波国柏原藩に転封となった。このお家騒動は、宇陀崩れと呼ばれる。

参考文献[編集]

  • 『奈良県宇陀郡史料』