生田春正
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生田 春正(いくた はるまさ)は江戸時代末期(幕末)の長州藩士。
天保5年(1834年)、大野毛利家の家臣で郷校・弘道館の学頭を務めていた生田神助(箕山)の長男として周防国熊毛郡大野村で生まれる。父、箕山は勤皇心が高く、長男春正、次男良佐に砲術、海防の研究をさせている。
生田良佐が亡くなった文久元年(1861年)の後に、当時長州藩の海軍基地であった大島郡平郡島に渡り、文久4年(1864年)-明治5年(1872年)の間、寺小屋を開く。その後、明治15年(1882年)、周防にある田畑を売り開拓会社に金を支払って、北海道山口村(現・札幌市手稲区)に入植。開拓会社に払い込む人が少ないため、ほとんど生田一族の払い込みで開拓が始まり、非常に困窮したが、明治19年(1886年)寺小屋を開き、現在の札幌市立手稲北小学校の礎となる。