Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス/玉案宝典

玉案宝典(ぎょくあんほうてん)とは、中国で17世紀半ばに編纂された百科事典である。なお、当時の元号をとって、永昌玉案宝典とも呼ばれることも多い。3万巻を超える分量があったといわれているが、中国では早くに失われ、数冊の写本が現存するのみである。しかし、1976年、日本の長崎の旧家の蔵から玉案宝典の写本132巻が発見され、玉案宝典の謎の解明に役立った。

この百科事典の編纂にあたっては、執筆者の制限などはなく、数多くの学者が参画した。相当な部分が漢文で書かれていたものの、チベット語モンゴル語満洲語日本語など他の様々な言語も用いて書かれていた。

成立の過程[編集]

17世紀に入ると、中国の時の王朝のはいっそう衰微し、各地で農民反乱が頻発していた。このような反乱勢力の中で頭角を現したのが、李自成である。李自成は各地の農民反乱勢力を統一し、自ら明王朝に変わる新しい王朝を作ろうと考え始めていた。新王朝を打ち立てるためには、知識人の協力が不可欠であった。当時の中国の知識人は士大夫とよばれ、地主であり、かつ官僚を輩出する階層であった。王朝の経営のためには精緻な官僚組織が必要であり、そのためにはこれら知識人の支持が不可欠であったのである。

しかしながら、李自成の率いる軍勢は生活に困窮した階層のものが多く、彼らは自分たちから収奪して良い生活を送っていた士大夫層に対して良い感情を持っていなかった。しかも、李自成の軍勢は農民の支持を得るために、しばしば地主から農民へ土地を分配したり、小作料の減免措置を行っていた。こういったことから、李自成に対する士大夫層の評判は非常に悪かった。

こうした中、李自成の一族の女性である羅李珊娥(らりさんが)は士大夫層を味方につけるためには、これらの知識人と何か共同作業を行うと良いと李自成に進言した。この頃、戦乱のために官として出仕する機会がなかなかなく、士大夫層は暇をもてあましていた。自分の知識を発揮する機会がないということは士大夫層にとっては鬱憤がたまることであった。羅李珊娥は、こういった士大夫層のために知識を表出する場をつくれば、天下の賢人は李自成のもとに集まるだろうと考えたのである。

李自成は羅李珊娥の提案を受け、明の崇禎十三年(1640年)4 月1日、任夢衛(じんぼうえい)にいかなるものでも参加できる書物を作るように命じた。この時、どのような書物を作るのかははっきりと命じられてはいなかったが、任夢衛は羅李珊娥と相談して、これからの国家経営の資料となるべきものを作る方向で話を進めていった。結局、参加者の幅を広げることもあって、天下の諸々のことを説明したいわば百科事典のようなものを作ることとなった。

任夢衛は、各地の人士に対して、自由に天下の諸事を説明した文章を書いて提出するように呼びかけた。これに対し、当初知識人層の反応は鈍かったものの、李自成の勢力拡大とともに、だんだんと原稿が集まり出すようになった。当初の目的は、士大夫層を味方につけるためであったが、李自成政権の中国支配のために情報を集積しておいたことは李自成政権の発展にとって重要なことであった。

明の崇禎十六年(1643年)、李自成は西安皇帝として即位し、国号を大順、元号を永昌とした。この頃、中央の官制が徐々に設置されはじめ、皇帝のための図書館として西安に維熙院が設置された。任夢衛は維熙院学士兼翰林侍読学士に任命され、引き続き編纂事業を主催することとなった。この為、編纂事業は維熙院にて行われることとなった。定かではないが、おそらくこの頃に、この編纂事業で作られる書物に李自成が自ら玉案宝典と命名されたとされる。

正式な執筆体制も整い、李自成が中国を統一することが瞭然となったため、原稿を奉る者も大幅に増えた。一時は玉案宝典のための原稿を奉る者があまりにも多かったために、維熙院から人の列があふれるほどであったという。

長崎で発見された玉案宝典に記されていた日本図。本州西部を収録しているが、形はかなり不正確である

永昌2年(1644年)に、李自成は北京を陥落させ、明を滅ぼした。しかし、これに反発した明の武将である呉三桂の軍勢を万里の長城の南に招き入れ、清の軍勢とともに、李自成を打ち破った。李自成が追われると、この百科事典編纂事業も未完成のまま終わった。各地にためられた玉案宝典の文章は、その後の清の軍勢の侵攻とそれに伴う戦乱でほとんどが失われた。また戦乱で失われなかった部分も、清朝政府によって処分されてしまった。これは漢民族王朝である李自成政権がつくった学問的遺産は、満洲族という異民族政権の清にとって都合の悪いものであったからである。

現在では、明末清初の戦乱をくぐり抜けて残った部分で、清朝政府に処分される前にその一部が写本として書き写されたものがわずかに残るばかりである。

特徴[編集]

多言語性[編集]

玉案宝典の大きな特徴の一つとして、多言語百科事典であることがあげられる。玉案宝典のおよそ8割は漢文で書かれていたものの、他の2割はそれ以外の言語で書かれていた。現存する写本の中で用いられている言語は、漢文の他にチベット語モンゴル語満洲語日本語がある。現存していないために実際に書かれたかははっきりしないものの、朝鮮語ラテン語スペイン語ポルトガル語オランダ語ウイグル語ペルシア語でも書かれたと言われている。

そもそも中国の知識人は漢文をもって文章をつづり、学問を論じてきた。また、日本や朝鮮といった周辺諸国の間でも、学問的内容は漢文で書かれることが多かった。このような状況において、漢民族の皇帝に捧げるべき文章に「異民族」(=非漢民族)の言語を用いるということはある種異常なことであった。

このことについては、完成後に周辺国家へ配布する予定だったという説や、他の言語で書かれたものもいずれの日にかは漢文に翻訳して完璧なものにする予定であったという説が考えられている。いずれにせよ、他言語で書かれた書物の編纂は、李自成政権の外交方針と深く関わるものであると考えられている。

執筆者[編集]

原稿を提出するものは、自らの名前を記すことが推奨されていたが、匿名で提出することも許されていた。ただし、匿名で提出するときには自分の出身の府県の名前を書く必要があった。このような匿名者は、「愛秘」(アイピ)と呼ばれ、批判されることもあった。

「撰」とは「書いた」との意。左から4行目の「山西太原府」の下に文字がないのは、この部分の筆者が「愛秘」であるため

玉案宝典の執筆者は、李自成が彼らに自ら「維基平定安」(コレ平ヲ基トシテ、安ヲ定ムルナリ(平和に基づいて、安らかな世の中を定めるのだとの意))と言ってしばしば激励したことから、「維基平定安」(ヰキヘイテイアン)と呼ばれた。

「維基平定安」は士大夫層の者が多く、なかんずく、科挙に応じたものの未だ合格していないものたちによるものが多かった。だが、庶民で何とか読み書きができるくらいの者で、原稿を書いた者がいるという記録が残っている。また、ラテン語・スペイン語・ポルトガル語・オランダ語といったヨーロッパの言語で書かれた部分は、キリスト教の宣教師によって書かれたものであると考えられている。

分類[編集]

玉案宝典の編纂においては、検索の便宜を図るために、早くから収められた原稿のカテゴリ分けを行っていた。この分類の仕方は、任夢衛ら維熙院の者たちによって、大まかに定められていたが、執筆者が自ら新しい分類を設置するように要求することもできた。

中国には伝統的な漢籍の分類方法として経(儒教に関するもの)・史(歴史)・子(その他のもの)・集(詩文集)の4つにわける四部という分類が行われていたが、玉案宝典の編纂においては四部分類は用いられず、今までとは全く違った分類が用いられた。これは多言語プロジェクトである故に、今までの中国文化の範疇には収まらない事項が多々あったためであると考えられている。また書物の分類と百科事典の一つ一つの項目の分類の仕方は自ずから違うということも理由としてあげられよう。

この玉案宝典の分類は非常に深く考えられたもので、非常に深く練り上げられた階層性を持っていた。玉案宝典の分類では、中国で伝統的に軽視されてきた自然科学や技術の分野の充実が著しかった。例えば、動物という分類は以下のようなさらに細かい分類に分けられた。

  1. 皇帝に属するもの
  2. 芳香を放つもの
  3. 飼いならされたもの
  4. 乳飲み豚
  5. 人魚
  6. お話に出てくるもの
  7. 放し飼いの犬
  8. この分類自体に含まれるもの
  9. 気違いのように騒ぐもの
  10. 数えきれぬもの
  11. らくだの毛のごとく細い毛筆で描かれたもの
  12. その他のもの
  13. 壷をこわしたばかりのもの
  14. 遠くから見るとのように見えるもの

このようにそれ以前とは全く隔絶した分類方法とそれにともなう学問体系の再構築は中国思想史上の画期とされている。

例えば、先の動物の下位分類について言えば、「この分類自体に含まれるもの」と記されているなど、一見矛盾した分類に見える。しかし、これはドイツの哲学者ヘーゲル弁証法の先取りと言える。下位レベルでは矛盾している内容であっても、上位レベルに止揚することによって、整合性が図られるのである。もっとも、ここでは、止揚を行う行為者が下位分類の第一に掲げられた「皇帝に属するもの」ということとなり、皇帝権力を源泉とした統治構造という伝統性の桎梏からは逃れることができていないという批判もなされている。しかし、この種のメタレベルまで言及した論理は中国思想史上珍しいことであるし、同時代の世界の他の地域で似たような議論は未だなされていなかった。

また、「らくだの毛のごとく細い毛筆で描かれたもの」といった冗長のきらいのある分類も西洋哲学の議論に先行するものである。この分類は、あまりに細かすぎて無意味なように思える。しかしながら、自然言語の体系において、語の意味を捉えることは難しく、何らかの文という真偽値が決定できるものでなくては論理が組み立てづらいのである。すなわち意味論上の齟齬をきたさないためにこのような冗長な説明を分類として採用したのである。西洋では、これを完全に扱えるようになるにはゴットロープ・フレーゲの登場を待たなくてはならなかった。また、ウィリアム・ジェームズが根源的経験論で主張したように、イギリス経験論が印象をいくつかのピースとして取り出そうとしているという面に対する一つの回答となっている。

玉案宝典の分類は、ポスト構造主義の代表的哲学者ミシェル・フーコーもそれに触れるなど、現代思想の中でもその価値を失っていない。

名称[編集]

「玉案」とは天子の机のことであり、玉案宝典とは天子が支配を行っていく際に、座右において参考とすべき書物という意味が込められている。先に述べたように、この「玉案宝典」という名称は、李自成が皇帝に即位した1643年頃に李自成が自ら名付けた名称であるといわれている。

この名が与えられる前は『惟陛覲典』(うぃへいきんてん)という雅名があったという。これは、皇帝だけが見ることができる書物という意味であるが、自由に見られる玉案宝典の方針と異なるため、この名前はだんだん使われなくなっていった。

禹域並叮蛙』(ういきへいていあ)という異称もある。「域」とは中国の意味であり、「叮」とは鈴などがチリンチリンと鳴る音を意味し、「蛙」はここでは蛙の鳴き声を意味し、「叮蛙」で、鈴の音や蛙の鳴き声のように異民族が話す訳の変わらない言葉ということを示している。すなわち『禹域並叮蛙』とは「漢文で書かれたものと外国語で書かれたもの」ということを意味している。

なお、編纂当時は維熙院で編纂されたことから単に『維熙典』(うぃきてん)と呼ばれることが多かった。

編纂方法[編集]

玉案宝典のための原稿を書いた者は、誰でも西安に設けられた維熙院に原稿を奉ることができ、維熙院で担当の役人に受理された時点で、玉案宝典の一部として収録された。担当の役人は特にその内容を改めたりはせず、そのまま先に述べたような分類方法によって書庫に収められた。ただ、その項目がどの分類に属するかは執筆者にほぼゆだねられたために、時として適切な分類の箇所に収められていない場合もあった。

維熙院に収められたものについては、建前上は誰でも自由に閲覧することができた。ただし、実際はあまりに閲覧希望者が多かったためになかなか閲覧することができなかった。

現代の多くの百科事典とは違って、一つの項目を複数の人間が書くということもしばしばあった。これは他の人がすでに書いた項目について、その項目が書かれたことを知らずに原稿が持ち込まれた場合にも起きた。しかし、維熙院に収められている項目の説明を潔しとしない者が改善として原稿を持ち込む場合もあった。いずれにせよ、複数の人間が持ち寄った原稿が統合されて、一つの項目となった。

李自成の興した大順王朝の歴史を書いた『順史』の任夢衛伝には、編纂の苦労話がいくつか書かれている。例えば、李自成につき従ってきたあまり教養のない武将たちは、玉案宝典の編纂の意図が理解できず、しばしば「浪費浪費」とつぶやき維熙院の門前にできた列を過ぎていったという。これに影響されて、列をなしていた者たちは、なかなか受け付けられない苛立ちから、半ば揶揄として、維熙院のことを「浪費浪費」と呼ぶことがあった。

また、受付の役人が足りなかったことから、「維熙須郎」(維熙郎ヲ須フ、維熙には郎(役人)が必要だとの意)としばしば叫ばれたという。なお、後に開封にも維熙院の支所が実際に設けられたほか、北京・南京にもこういった支所をつくる計画があった。

影響[編集]

玉案宝典は明朝になされた『永楽大典』などの編纂事業の流れを引くものであり、この流れは後の清朝での『康煕字典』や『四庫全書』などの大編纂事業につながっていく。しかしながら、清朝での大編纂事業は、漢民族の学者が異民族王朝である清王朝を批判しないようにと企図されたものであり、玉案宝典のような自由闊達な面は見られなかった。また、玉案宝典の大きな特徴である独特の分類方法なども中国でその後使われることはなかった。

なお、玉案宝典は『善知の天楼』(スペイン語:Emporio celestial de conocimientos benevolos)という名前で西洋に紹介され、西洋の学問文化に大きな影響を与えた。玉案宝典の編纂が始まってからおよそ100年後のフランスで刊行が開始された『百科全書』はドゥニ・ディドロが玉案宝典を範にとって刊行したものだと言われている。

参考文献[編集]

  1. 大鵜素一郎『玉案宝典-17世紀中国の百科事典』 綿抜大学出版会、1988年
  2. 曾良五戸男『明清交代期における革命思想』 民明書房、1995年
  3. 許言僻編『注解玉案宝典』 墟人為書房、2001年
    • 現存している玉案宝典を現代中国語による注を加えて刊本にしたもの。玉案宝典の原本で漢文以外で書かれている部分については、現代中国語による訳が添えられている。

関連項目[編集]

エイプリルフール
うそですが何か
うそですが何か

この記事は、4月1日に立てられました。この記事の中身は出たら目で嘘八百です。
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