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  • 佐竹氏のサムネイル
    武士 徳川 豊田 那珂 中根 長倉 長山 西村 仁平 根本 野内 野上 野口 芳賀 萩野谷 羽生 濱野 樋口 人見 平戸 深沢 福地 袋田 藤井 藤田 堀江 前沢 真壁 益子 増淵 松平 松山 三村 谷田部 八柳 山方
    49キロバイト (4,691 語) - 2024年8月21日 (水) 22:19
  • ^ 平成28年野球殿堂入り発表 斎藤、工藤、榎本、松本、山中が殿堂入り 野球殿堂博物館ニュース 2016年1月18日付 ^ 『中日新聞』2016年1月19日朝刊27面「工藤、斎藤ら殿堂入り 山中、故榎本、故松本も」 ^ 『松本瀧蔵、山中正竹氏
    11キロバイト (1,224 語) - 2024年8月26日 (月) 04:26
  • 久保田藩のサムネイル
    竹氏が治めた。佐竹氏は室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。表高は約20万石、実高は約40万石。家格は大広間詰国持大名。 支藩として新田分知された家が2家ある他、2代義隆の実家亀田藩(岩城)が事実上の支藩となっていた時期もあった。…
    36キロバイト (5,752 語) - 2024年7月3日 (水) 15:09
  • よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。常陸国の戦国大名。佐竹氏第18代当主。 北条と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。 天文16年(1547年)、常陸国の戦国大名で佐竹氏第17代当主・佐竹義昭の子として誕生。…
    16キロバイト (2,474 語) - 2024年8月18日 (日) 01:21
  • 佐竹義宣 (右京大夫)のサムネイル
    と和睦した。この和睦は那須当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等が条件となっていた。当時、義宣は3歳であった。 天正13年(1585年)4月、佐竹氏が宇都宮と共に壬生を攻めた際に初陣を行ったと伝えられているが、当時の壬生は佐竹氏の傘下で、同年の暮れに北条
    29キロバイト (4,973 語) - 2024年5月17日 (金) 16:40
  • 大掾氏のサムネイル
    が、室町時代には佐竹氏が就いていたが、彼らの国内掌握において大掾の存在が障害となった。小田は国衙の掌握を目指して大掾と度々激しい対立を起こし、佐竹氏も後述のように大掾の取り込みを図ることになる。 鎌倉時代後期、大掾孝幹が亡くなると、有力な御内人である工藤高光が大掾
    21キロバイト (3,631 語) - 2024年6月28日 (金) 18:19
  • 竹氏の第15代当主。常陸太田城主。父は第14代当主義治。 100年近く続いた佐竹の乱に終止符をうち、古河公方家の内紛である永正の乱や、白河結城の内紛(永正の変)などに介入した。また、失地の一部の回復にも成功している。江戸や小野崎の内紛に介入するなど領内の支配体制をまとめ直し、佐竹氏
    7キロバイト (1,075 語) - 2024年1月15日 (月) 13:45
  • 永禄12年(1569年)、治は佐竹氏の侵攻を受けて居城・小田城を失い、天正11年(1583年)には佐竹氏に完全に臣従した。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せずに所領奪還の戦を行っていたことを理由に所領は没収され、結城と佐竹氏に分割されてしまう。
    13キロバイト (1,249 語) - 2024年6月21日 (金) 12:19
  • 佐竹 義(さたけ うじよし)は、戦国時代(室町時代後期)の武将。常陸国に勢力を持つ佐竹氏の一門。 佐竹義藤の長男。山入は常陸守護佐竹氏の一族であるが代々宗家との抗争を繰り広げており、父・義藤の代には宗家当主の義舜を太田城から追放するなど宗家に対して優位に立っていた。しかし、明応元年(1492年)…
    4キロバイト (582 語) - 2023年11月12日 (日) 18:30
  • 小田原征伐のサムネイル
    小田原征伐 (カテゴリ 後北条)
    北方の伊達政宗と対立していた佐竹氏は、早くから中央の織田や豊臣と連絡を取っていた。伊達は佐竹氏を挟む形で小田原北条と同盟関係にあり、佐竹氏は伊達を挟む形で上杉景勝と友誼を深めていた。一方、北関東の小諸侯はその動静として、小田原の傘下となるか、あくまで逆らい滅亡の道を辿るかの選択を迫られていた。佐竹氏
    127キロバイト (21,460 語) - 2024年9月5日 (木) 19:25
  • 相馬中村藩 (カテゴリ 相馬)
    ・相馬などの諸家は、養子縁組などの縁戚関係によって、常陸源氏嫡流を称する佐竹氏を事実上の盟主としていた。しかも、水戸は徳川家康の本拠地である江戸に近く、徳川を脅かしうる勢力であった。 このため、相馬は関ヶ原の戦いに勝利して全国政権を掌握した家康によって、1602年に佐竹氏
    11キロバイト (1,621 語) - 2024年7月21日 (日) 06:27
  • 岩城氏のサムネイル
    上遠野 上遠野秀永 上遠野秀宗 田中 田中隆定 船尾 船尾隆相 船尾昭直 船尾隆直 富岡 富岡隆時 富岡隆宗 竹貫 竹貫広光 竹貫重光 志賀 志賀武治 三好(真田) 三好幸信(真田信繁(幸村)の三男) 三好隆長 その他 飯野隆至 三坂隆次 小川隆勝 佐竹氏 相馬 伊達 田村 奥州藤原氏…
    24キロバイト (2,754 語) - 2024年2月9日 (金) 07:21
  • 佐竹義篤 (九代当主) (カテゴリ 佐竹氏)
    義篤は、弟や子供たちに小場(小場の養子に)、石塚、大山(大山の祖)、藤井(藤井の祖)と名乗らせ、領地をあたえている。なお、4男の乙王丸は若くして死亡し、他にも女子が3人いるが、嫁ぎ先などは不明。 ^ 佐々木倫朗「総論Ⅰ 中世における常陸佐竹氏の動向」佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究…
    3キロバイト (321 語) - 2023年1月21日 (土) 13:19
  • 蘆名義広 (カテゴリ 蘆名)
    竹氏および蘆名らの南奥諸大名の連合軍と伊達の間で人取橋の戦いが起こり、蘆名は佐竹義重率いる連合軍の一員として勝利した。 この頃、当主の亀王丸が夭折したため、家中は養子を巡って二分することになる。蘆名一門衆の猪苗代盛国、平田や富田
    10キロバイト (1,449 語) - 2024年8月13日 (火) 07:02
  • 佐竹義重 (四代当主) (カテゴリ 佐竹氏)
    ・真崎・岡田・岡部と称して庶家を興して、南北朝時代以降の佐竹氏の躍進の基礎となった。 鎌倉時代の佐竹氏は義重、長義(1207年 - 1272年)、義胤(1227年 - 1278年)、行義(1263年 - 1305年)、貞義と続いて、有力氏族の大掾
    4キロバイト (318 語) - 2024年6月1日 (土) 14:42
  • 佐竹秀義 (カテゴリ 佐竹氏)
    竹氏第3代当主。2代当主佐竹隆義の三男。長兄・義政が金砂城の戦い以前に上総広常により謀殺され、次兄の義清は庶子のために、その嫡男となった。 平安末期の佐竹氏は相馬御厨の支配権などを巡って房総半島の上総や千葉との関係が悪化していた。そのような状況下、佐竹氏は平家に接近していた。…
    5キロバイト (664 語) - 2024年8月17日 (土) 18:02
  • まもなく始まった永享の乱で持が自刃し、さらに結城合戦で関東の持派の残党が一掃され、女婿結城持朝も死去。遂に6代将軍足利義教による佐竹氏討伐が計画されるに至った。また、大掾でも家臣が義人の子を追放して、大掾頼幹を当主に擁立して佐竹氏と敵対した。しかし、義教が嘉吉の乱で暗殺されるなど関東の政局が佐竹氏
    11キロバイト (1,624 語) - 2023年9月20日 (水) 01:17
  • 水戸城のサムネイル
    城の歴史は平安時代まで遡り、当初は馬場の居館が現在の本丸付近にあったと考えられている。その後、馬場を追いやった江戸が水戸城を居城とした。江戸の時代には二の丸が築かれ、現在の本丸が内城、二の丸が重臣の屋敷地などになったとされている。1590年、小田原参陣の功により所領安堵を得た佐竹氏は水戸城を強襲し、江戸は滅亡した。佐竹氏
    18キロバイト (2,607 語) - 2024年8月22日 (木) 16:52
  • 佐竹隆義 (カテゴリ 佐竹氏)
    佐竹 隆義(さたけ たかよし)は、平安時代末期の武将。佐竹氏の第2代当主。新羅三郎源義光の曾孫で、初代当主・佐竹昌義の四男。 常陸奥7郡を領した有力者。治承4年(1180年)、隆義の上洛中に源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平治の乱以後、平に従っていたので、源氏ではあるが、頼朝に呼応しなかった。『佐竹家…
    4キロバイト (464 語) - 2024年8月17日 (土) 18:00
  • よしあき)は、常陸の戦国大名で、佐竹氏の第17代当主。常陸太田城主。 享禄4年(1531年)8月23日、第16代当主・佐竹義篤の次男として生まれる。異母長兄の義友が庶子のために、後継者に定められた。 天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏
    6キロバイト (699 語) - 2024年4月28日 (日) 05:36
  • 竹氏招テ小田ト佐竹氏領地之境片野ノ城ニ三楽ヲ置小田ヲ攻終ニ小田敗北佐竹氏彼地ヲ取片野モ本小田之領地也佐竹氏攻取之後三楽ヲ招彼城主トス片野住人等背三楽片野前城主八代将監女上曽源三郎ト云者ノ妻也将監モ源三郎モ小田之家臣ニテ小田竹氏戦之時為佐竹氏討死ス源三郎後家ヲ片野之住人等養置聞之佐竹氏
  • し、実のところ全ての源氏が頼朝に、全ての平が平家の下についたわけではない。例えば、頼朝とともに挙兵した北条・三浦は平であった。一方、古くからの源氏の家人は当初、頼朝の挙兵には否定的な者も少なくなかった。また、同じ清和源氏である常陸(茨城県)の佐竹氏は平家に近かったため、頼朝から討伐された。
  • 部首: + 0 画 総画: 4画4 異体字 : 𫞕(俗字) 筆順 : ファイル:-bw.png 象形文字だが由来は不詳。『説文解字』は崖の形と解釈しているほか、植物の根の形、匙の形という説もあるが、いずれも説得力を有するものではなく定説はない。仮借して「うじ」を意味する漢語{ /*deʔ/}に用いる。
  • (いりてっぽうにでおんな) 容れ器と人はあるものを使え 鰯(いわし)の頭も信心から 言わぬが花 言わぬが仏 飢えに臨みて苗を植える 魚心あれば水心 牛に引かれて善光寺参り より育ち 嘘から出た実(まこと) 嘘つきは泥棒の始まり 嘘も方便 独活(うど)の大木 鵜の目鷹の目 馬には乗ってみよ人には添うてみよ 馬の耳に念仏 生みの親より育ての親
  • で作った質素なみこしを、厚化粧をした若者が担いで右に左に走り回った。最後はため池の中に飛び込みが行われた。見物人を引き連れて一緒にため池の中に落とされる若者もおり、その暴れように大きな歓声があがった。 この祭りに参加した民主党の衆議院議員である玉木雄一郎
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