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  • 大阪 (大坂からのリダイレクト)
    大阪(おおさか、英語: Osaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名、都市。 律令国では摂津国の範囲であり、近畿の経済・文化の中心地。 かつては大坂と表記し、古墳時代から江戸時代以降の長きにわたり、日本経済と文化の中心地であった。そのため、京都と共に上方と呼ばれ、古都・副都・水都としての歴史も持つ。…
    24キロバイト (3,759 語) - 2024年8月14日 (水) 01:35
  • 大坂城のサムネイル
    大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、現在の大阪府大阪市中央区大阪城(上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった、安土桃山時代に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。 「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おお…
    70キロバイト (10,307 語) - 2024年8月5日 (月) 06:02
  • 大阪府のサムネイル
    大阪府 (大坂裁判所からのリダイレクト)
    大坂城(摂津国)があり、高槻藩、麻田藩、河内国には丹南藩、狭山藩が、和泉国には伯太藩、岸和田藩があった。 慶応4年/明治元年1月22日(1868年2月15日)に明治政府は大坂鎮台を設置することを決めた。1月27日、大坂鎮台を大坂裁判所に改称した。4月、大坂
    126キロバイト (14,521 語) - 2024年7月27日 (土) 19:39
  • おふみ)』という。そのうち1帖目から4帖目には日付があるものを年代順にならべてあり、5帖目には日付が不明なものをまとめてある。そのため、4帖目の最後、第15通「大坂建立」は、蓮如の真筆では最後の御文。遺言ともいわれる。 (前半部分略)あはれあはれ存命のうちにみなみな信心決定あれかしと朝夕おもひはんへり まことに宿善まかせ…
    2キロバイト (379 語) - 2022年1月17日 (月) 11:35
  • 石山本願寺のサムネイル
    石山本願寺 (大坂本願寺からのリダイレクト)
    石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院である。なお、名称に関しては、大坂本願寺、大坂城など、様々な説がある。 他の本願寺と比較した際の特徴は、本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居 で囲まれた「寺内町」を有する点である。…
    43キロバイト (6,160 語) - 2024年8月12日 (月) 03:10
  • 蔵屋敷 (大坂蔵屋敷からのリダイレクト)
    豊臣政権が全国支配を完成させた頃から政治の中心であり、有力な商人たちが在住していた大坂・堺に諸大名の蔵屋敷が立てられ始めた。 やがて江戸幕府が成立すると、政治の中心は江戸に移転したものの、商業の中心はそのまま大坂に留まったために以後も諸藩の蔵屋敷は大坂に集中した。 大坂には延宝年間(1670年代)には80、天保年間(1840…
    7キロバイト (1,167 語) - 2023年2月19日 (日) 22:48
  • 大阪市のサムネイル
    1580年)、織田信長により石山本願寺が壊滅する。 1583年 - 豊臣秀吉が石山本願寺の跡に大坂城を築く。 1612年 - 道頓堀が完成。 1615年 - 大坂夏の陣で大坂城下は焦土となる。 1619年 - 大坂城下は天領となり復興、大坂町奉行所が管轄。以降日本の物流の中心地として繁栄し、「天下の台所」と呼ばれる。…
    182キロバイト (18,780 語) - 2024年8月22日 (木) 12:05
  • 徳川家康のサムネイル
    9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。 9月13日付毛利秀元宛輝元書状には、家康が大坂入りした理由として次の3つを挙げている。…
    277キロバイト (45,740 語) - 2024年8月15日 (木) 06:33
  • 三都のサムネイル
    三都 (大坂の節)
    村、曾根崎村、上福島村、下福島村、野田村の内字野田道家、九条村、西九条村但安治川北壱丁目続家、三軒家村の内勘助嶋、西側村、西高津村、塩町口野畑、高津屋吉右衛門肝煎、東成郡北平野町村、南平野町村、東高津村、天王寺村が含まれた。江戸時代後半の大坂三郷の人口減少は郊外の形成に伴う一種のドーナツ化現象…
    53キロバイト (5,608 語) - 2024年7月1日 (月) 02:44
  • 真田信幸の側近。犬伏の陣の後、信幸から小松殿に本家分家が敵味方になったことを伝える手紙を託される。 金井権之助 演:庄司永 信幸の家臣。犬伏の陣の後、陣中で真田本家と戦うのをためらうようなことを言ったため信幸に叱られる。 大坂冬の陣において信吉、信政に従い和議がなった後は陣所を訪れた幸村、大助と久々に会い感動の涙を流す。…
    101キロバイト (17,670 語) - 2024年1月13日 (土) 03:48
  • 毛利輝元のサムネイル
    そして、輝元ら大坂の諸将は作戦を議して、輝元は大坂城で秀頼を擁護し、宇喜多秀家や石田三成らが近畿や伊勢、濃尾方面に軍を出陣させ、これらを平定することになった。また、家康が西上してきた際には、輝元が大坂より出陣し、西軍の全軍を指揮して迎撃すると定められた。だが、輝元は関ヶ原の戦いの終結まで、大坂城から出陣することはなかった。…
    188キロバイト (33,026 語) - 2024年8月4日 (日) 01:31
  • 郡山城 (大和国)のサムネイル
    が多く普請され、大規模なものになった理由として、豊臣秀長の居城として以外に、大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。また天守台には5層の天守がっていたとの伝承があるが、「伝承でいわれるような五層の天守閣がっていたかどうかは疑問」といい、建築学的にはもう少し小さなものではなかったか…
    38キロバイト (5,471 語) - 2024年6月3日 (月) 05:27
  • 丸にも再び町人地が展開され、上町台地上の渡辺、玉造、上本町、谷町などが上町と総称されるようになった。武家地については、大坂城代や大坂町奉行の屋敷地は基本的に上町台地上に位置する大坂城内や上町に置かれたが、一部は天満の北縁や川口に置かれ、天下の台所と称された都市の性格上、各藩の大名屋敷(蔵屋敷)はも…
    11キロバイト (1,640 語) - 2024年6月23日 (日) 06:48
  • 大坂城へ持ち帰り、24日、25日と幕府首脳は会議を開いた。正外と松前崇広は幕府の専権で兵庫・大坂の開港開市を決めると決断し閣議をまとめた。回答の期日と約束したのは26日である。 『徳川慶喜公伝』によると24日、京都で将軍の招命を受けた慶喜は25日夜に京都を出た。26日「明星の尚閃く頃」に大坂
    63キロバイト (11,345 語) - 2024年8月3日 (土) 11:34
  • 球泉洞駅のサムネイル
    球泉洞駅 (大坂間駅からのリダイレクト)
    恐れがあるとして、2024年2月から駅舎の解体撤去工事が実施される。無人駅。かつては有人駅で駅舎もっていた。 駅名の「球泉洞」は当駅の北東約1.2kmの場所にある鍾乳洞で、1988年にそれまでの「大坂間」から改称された。同時期に急行「えびの」「くまがわ」の一部が停車するようになり、急行廃止・特急化…
    9キロバイト (1,027 語) - 2024年7月29日 (月) 00:08
  • 江戸時代の大坂における茶屋の分布や営業形態に関しては杉本厚典(2024)の『江戸時代大坂の茶屋・料理屋の分布』で分析されており、 17世紀後葉に遊山茶屋として登場し、17世紀末には遊山茶屋と新地茶屋に区分され、18世紀前葉には、堀江・道頓堀、新地、道頓堀のいろは茶屋、郊外の茶屋の四種類が大坂
    13キロバイト (1,483 語) - 2024年7月8日 (月) 11:27
  • 船場 (大阪市)のサムネイル
    船場(せんば)は、大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区 (CBD) に当たる。大坂の町人文化の中心となった所で、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁と見なされていた。 船場の範囲は、以下の河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)、南北約2km、東西約1kmの四角形の地域である。…
    33キロバイト (4,700 語) - 2024年8月2日 (金) 06:10
  • 田原藩のサムネイル
    1万2千石 三宅康勝 〈大坂加番〉 三宅康雄 〈駿府加番・日光祭礼奉行・奥詰・小姓・奏者番・寺社奉行〉 三宅康徳 三宅康高 〈日光祭礼奉行〉 三宅康之 〈日光祭礼奉行〉 三宅康武 〈日光祭礼奉行〉 三宅康邦 三宅康友 〈大坂加番・日光祭礼奉行〉 三宅康和 〈大坂加番〉 三宅康明 〈大坂加番〉 三宅康直 〈日光祭礼奉行・大坂加番・奏者番〉…
    14キロバイト (2,135 語) - 2023年11月28日 (火) 11:56
  • 外国人居留地のサムネイル
    1868年1月1日(慶応3年12月7日)に神戸港の開港と大坂の開市が実施された。鳥羽・伏見の戦いののち大久保利通が「大坂遷都論」を展開し、1868年4月15日(慶応4年3月23日)から5月28日(閏4月7日)まで明治天皇の大坂行幸(大坂親征)が実施された。明治天皇大坂行幸中の1868年5月3日(慶応4年4月11…
    34キロバイト (5,225 語) - 2024年4月6日 (土) 00:27
  • とする。さらに同年1月23日には、太政官の会議において浪華遷都(大坂遷都)の白書を提出するに至った。その中で宮中の「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するために遷都が必要で、遷都先としては大坂が適していると主張している。しかし、大坂が京都に隣接しているとは言え、遷都を行えば千年の都である京都を放…
    25キロバイト (4,250 語) - 2024年7月28日 (日) 01:30
  • 十三日大風の詳聞土州関を設けて米を他国に出さしめず大磯出火大坂大風雨筑前の太守の不実盗賊流行京都奉行人民を救恤す近江の凶作嵯峨の強訴大坂の災変出羽庄内及び雲州の凶作米価暴騰に付き大坂の状況京都に於ける乞食の処分大坂出火京都の米価盗賊横行す大坂築城残り石の処分貧人に布施す洒落文その一洒落文その二 天保八酉年大小
  • 征韓論にやぶれて政府を去っていた者のうち、板垣退助(いたがき たいすけ)・後藤象二郎・江藤新平は、1874年1月に民撰議院設立の白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出した。 そして板垣退助は1874年4月には故郷の土佐に帰って片岡健吉(かたおか けんきち)とともに立志社(りっししゃ)を創設した。
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