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'''セテワヨ・カムパンデ'''({{Lang-zu|'''Cetshwayo kaMpande'''}}、[[1826年]] - [[1884年]][[2月8日]])は、[[ズールー王国]]第4代[[国王]](在位:[[1873年]][[9月1日]] - [[1879年]][[7月4日]])。 |
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== 略歴 == |
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ズールー国王である |
ズールー国王である{{仮リンク|ムパンデ・カセンザンガコナ|en|Mpande kaSenzangakhona}}の第1子として誕生。ムパンデの死後、国王に即位して慣習により新首都を建設、「[[ウルンディ]]」と名づけた。初代国王の[[シャカ・ズールー|シャカ]]が創立した軍制を再び採用するとともに、[[マスケット銃]]をインビと呼ばれる連隊に配備するなどの軍備増強を行った。 |
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[[画像:Cetshwayo ka Mpande, cropped.jpg|150px|left|thumb|ズールー戦争後、ロンドンでのセテワヨ]] |
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セテワヨは、国内に在住するキリスト教宣教師を追放し、1877年にはイギリス植民地との国境線付近でイギリス人測量士を拘束した。 |
セテワヨは、国内に在住するキリスト教宣教師を追放し、1877年にはイギリス植民地との国境線付近でイギリス人測量士を拘束した。 |
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これに対して |
これに対して南アフリカ高等弁務官のサー・{{仮リンク|ヘンリー・バートル・フレア|en|Henry Bartle Frere|label=バートル・フレア}}[[准男爵]]は、セテワヨに対して損害賠償と部隊の駐留、インビの解散など、ズールー王国の保護国化を要求した。 |
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セテワヨは損害賠償以外の要求を拒否すると1879年、イギリスはズールー王国に侵攻し[[ズールー戦争]]が勃発した。 |
セテワヨは損害賠償以外の要求を拒否すると1879年、イギリスはズールー王国に侵攻し[[ズールー戦争]]が勃発した。 |
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序戦ではイギリス部隊を壊滅し、撤退させるなど優勢であったが、部隊を増強したイギリス軍の前に劣勢となった。1879年7月1日には首都ウルンディに侵攻し、市内を放火、7月4日には王宮が攻められセテワヨは脱出した。しかし8月28日に拘束され[[ケープタウン]]に移送された。ズールー王国はイギリスにより保護国化され、12に分割された。 |
序戦ではイギリス部隊を壊滅し、撤退させるなど優勢であったが、部隊を増強したイギリス軍の前に劣勢となった。1879年7月1日には首都ウルンディに侵攻し、市内を放火、7月4日には王宮が攻められセテワヨは脱出した。しかし8月28日に拘束され[[ケープタウン]]に移送された。ズールー王国はイギリスにより保護国化され、12に分割された。 |
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[[画像:Cetewayo-medal.jpg|150px|thumb|ロンドンで来訪者に送ったメダル]] |
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1882年、イギリス本土の[[ロンドン]]への移動が認められ女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]と会談、ズールーランドへの帰還を要請した。 |
1882年、イギリス本土の[[ロンドン]]への移動が認められ女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]と会談、ズールーランドへの帰還を要請した。 |
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セテワヨの退位後、[[アフリカーナー|ボーア人]]の支援のもとで血族間の抗争が絶えなかったため、1883年1月10日、イギリスはセテワヨをズールーランドに帰還させ、復位させ、ウルンディ周辺の施政権を返上した。しかしセテワヨに以前の影響力は無く、ウルンディが襲撃されてセテワヨは負傷しながらもヌカンドラ森に逃亡した。10月15日、イギリスの護衛を受けて南部の |
セテワヨの退位後、[[アフリカーナー|ボーア人]]の支援のもとで血族間の抗争が絶えなかったため、1883年1月10日、イギリスはセテワヨをズールーランドに帰還させ、復位させ、ウルンディ周辺の施政権を返上した。しかしセテワヨに以前の影響力は無く、ウルンディが襲撃されてセテワヨは負傷しながらもヌカンドラ森に逃亡した。10月15日、イギリスの護衛を受けて南部の{{仮リンク|エショウェ|en|Eshowe}}に着いた。 |
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1884年、セテワヨはエショウェで亡くなり、ヌカンドラの森に埋葬された。検死が行われなかったため心臓発作と診断されたが、同時期にズールーの有力者 |
1884年、セテワヨはエショウェで亡くなり、ヌカンドラの森に埋葬された。検死が行われなかったため心臓発作と診断されたが、同時期にズールーの有力者も同様な様子で亡くなったことからイギリスまたはボーア人による毒殺の可能性も指摘されている。<ref>http://africanhistory.about.com/library/biographies/blbio-cetshwayo.htm</ref> |
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== 脚注 == |
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*[[ズールー戦争]] |
*[[ズールー戦争]] |
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2019年1月12日 (土) 04:54時点における版
セテワヨ・カムパンデ Cetshwayo kaMpande | |
---|---|
ズールー王国国王 | |
1875年 | |
在位 | 1873年9月1日 - 1879年7月4日 |
出生 |
1826年 ズールー王国、エショウェ |
死去 |
1884年2月8日 ズールー王国、エショウェ |
子女 | ディヌズールー・カセトシュワヨ |
父親 | ムパンデ・カセンザンガコナ |
セテワヨ・カムパンデ(ズールー語: Cetshwayo kaMpande、1826年 - 1884年2月8日)は、ズールー王国第4代国王(在位:1873年9月1日 - 1879年7月4日)。
略歴
ズールー国王であるムパンデ・カセンザンガコナの第1子として誕生。ムパンデの死後、国王に即位して慣習により新首都を建設、「ウルンディ」と名づけた。初代国王のシャカが創立した軍制を再び採用するとともに、マスケット銃をインビと呼ばれる連隊に配備するなどの軍備増強を行った。
セテワヨは、国内に在住するキリスト教宣教師を追放し、1877年にはイギリス植民地との国境線付近でイギリス人測量士を拘束した。
これに対して南アフリカ高等弁務官のサー・バートル・フレア准男爵は、セテワヨに対して損害賠償と部隊の駐留、インビの解散など、ズールー王国の保護国化を要求した。
セテワヨは損害賠償以外の要求を拒否すると1879年、イギリスはズールー王国に侵攻しズールー戦争が勃発した。
序戦ではイギリス部隊を壊滅し、撤退させるなど優勢であったが、部隊を増強したイギリス軍の前に劣勢となった。1879年7月1日には首都ウルンディに侵攻し、市内を放火、7月4日には王宮が攻められセテワヨは脱出した。しかし8月28日に拘束されケープタウンに移送された。ズールー王国はイギリスにより保護国化され、12に分割された。
1882年、イギリス本土のロンドンへの移動が認められ女王ヴィクトリアと会談、ズールーランドへの帰還を要請した。
セテワヨの退位後、ボーア人の支援のもとで血族間の抗争が絶えなかったため、1883年1月10日、イギリスはセテワヨをズールーランドに帰還させ、復位させ、ウルンディ周辺の施政権を返上した。しかしセテワヨに以前の影響力は無く、ウルンディが襲撃されてセテワヨは負傷しながらもヌカンドラ森に逃亡した。10月15日、イギリスの護衛を受けて南部のエショウェに着いた。
1884年、セテワヨはエショウェで亡くなり、ヌカンドラの森に埋葬された。検死が行われなかったため心臓発作と診断されたが、同時期にズールーの有力者も同様な様子で亡くなったことからイギリスまたはボーア人による毒殺の可能性も指摘されている。[1]
脚注
関連項目
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