「ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)」の版間の差分
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2017年9月24日 (日) 14:17時点における版
ヨハン・フリードリヒ(1世)(Johann Friedrich (I.), 1503年6月30日 - 1554年3月3日)は、ザクセン選帝侯(在位:1532年 - 1547年)[1]。
ヴェッティン家エルンスト系のザクセン選帝侯ヨハンの長男。「ドイツ語: der Grossmütige」(英語: the Magnanimous[2]、度量公[1]、豪胆公[2])とも呼ばれた[1]。
マルティン・ルターと友好関係にあり、ヘッセン方伯フィリップと共にシュマルカルデン同盟の盟主となった[1]。しかし、1546年のシュマルカルデン戦争を経て、1547年に神聖ローマ皇帝カール5世にミュールベルクの戦いに敗れて捕縛され、選帝侯位と所領を剥奪された[1]。選帝侯位と所領のほとんどは又従弟でヴェッティン家の別系統(アルブレヒト系)に属するモーリッツに与えられ[1]、ヨハン・フリードリヒには「ザクセン公」の肩書とチューリンゲン地方の所領だけが残された。一方で、モーリッツの勢力拡大を恐れたカール5世は、ヨハン・フリードリヒの息子たちにテューリンゲンの各地の方伯として領土を与えて、ヴェッティン家の統一を阻んだ。
家族
1527年にユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘ジビュレと結婚し、4男をもうけた。
- ヨハン・フリードリヒ2世(1529年 - 1595年) - ザクセン公
- ヨハン・ヴィルヘルム(1530年 - 1573年) - ザクセン公、後にザクセン=ヴァイマル公
- ヨハン・エルンスト(1535年、夭折)
- ヨハン・フリードリヒ3世(1538年 - 1565年) - ザクセン=ゴータ公
脚注
出典
関連項目
- ザクセン=ゴータ公国(ザクセン=コーブルク公国):末子ヨハン・フリードリヒ3世が統治した国
- ザクセン=コーブルク=ゴータ公国(ザクセン=コーブルク=ゴータ家):上記の国が統合したもの
- ルーカス・クラナッハ(1472-1553) - ルネサンス期ドイツを代表する画家。祖父フリードリヒ3世(在位:1486年 - 1525年)に招聘されて以来、父ヨハン(在位:1525年 - 1532年)、ヨハン・フリードリヒの代まで宮廷画家として仕えた。
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