「ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)」の版間の差分

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*[[ザクセン=ゴータ公国]]([[ザクセン=コーブルク公国]]):末子ヨハン・フリードリヒ3世が統治した国
*[[ザクセン=ゴータ公国]]([[ザクセン=コーブルク公国]]):末子ヨハン・フリードリヒ3世が統治した国
*[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国]]([[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]):上記の国が統合したもの
*[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国]]([[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]):上記の国が統合したもの
*[[ルーカス・クラナッハ]](1472-1553) - ルネサンス期ドイツを代表する画家。祖父[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]](在位1486-1525)に招聘されて以来、父[[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]](在位1525-1532)、ヨハン・フリードリヒまで宮廷画家として仕えた。
*[[ルーカス・クラナッハ]](1472-1553) - ルネサンス期ドイツを代表する画家。祖父[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]在位:1486年 - 1525年)に招聘されて以来、父[[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]](在位:1525年 - 1532年)、ヨハン・フリードリヒの代まで宮廷画家として仕えた。


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2017年9月24日 (日) 14:17時点における版

ヨハン・フリードリヒ
クラナッハ作(1531年)

ヨハン・フリードリヒ(1世)(Johann Friedrich (I.), 1503年6月30日 - 1554年3月3日)は、ザクセン選帝侯(在位:1532年 - 1547年[1]

ヴェッティン家エルンスト系のザクセン選帝侯ヨハンの長男。「ドイツ語: der Grossmütige」(英語: the Magnanimous[2]、度量公[1]、豪胆公[2])とも呼ばれた[1]

マルティン・ルターと友好関係にあり、ヘッセン方伯フィリップと共にシュマルカルデン同盟の盟主となった[1]。しかし、1546年のシュマルカルデン戦争を経て、1547年に神聖ローマ皇帝カール5世ミュールベルクの戦いに敗れて捕縛され、選帝侯位と所領を剥奪された[1]。選帝侯位と所領のほとんどは又従弟でヴェッティン家の別系統(アルブレヒト系)に属するモーリッツに与えられ[1]、ヨハン・フリードリヒには「ザクセン公」の肩書とチューリンゲン地方の所領だけが残された。一方で、モーリッツの勢力拡大を恐れたカール5世は、ヨハン・フリードリヒの息子たちにテューリンゲンの各地の方伯として領土を与えて、ヴェッティン家の統一を阻んだ。

家族

1527年ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘ジビュレと結婚し、4男をもうけた。

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,Britannica Japan Co., Ltd,2014,コトバンク版 2016年11月30日閲覧。
  2. ^ a b 東京富士美術館,収蔵品作品詳細,ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ豪胆公の肖像, 2016年11月30日閲覧。

関連項目

先代
ヨハン
ザクセン選帝侯
1532年 - 1547年
次代
モーリッツ
先代
ヨハン
ザクセン公
エルンスト系
1532年 - 1554年
次代
ヨハン・フリードリヒ2世