「ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)」の版間の差分
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[[ヴェッティン家]][[エルネスティン家|エルンスト系]]のザクセン選帝侯[[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]]の長男。「{{Lang-de|der Grossmütige}}」({{Lang-en|the Magnanimous}}<ref name="TFAM-クラーナハ"/>、度量公<ref name="ブリタニカ"/>、豪胆公<ref name="TFAM-クラーナハ"/>)とも呼ばれた<ref name="ブリタニカ"/>。 |
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[[マルティン・ルター]]と友好関係にあり、[[ヘッセン方伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ]]と共に[[シュマルカルデン同盟]]の盟主となった<ref name="ブリタニカ"/>。しかし、1546年の[[シュマルカルデン戦争]]を経て、1547年に[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に[[ミュールベルクの戦い]]に敗れて捕縛され、[[選帝侯]]位と所領を剥奪された<ref name="ブリタニカ"/>。選帝侯位と所領のほとんどは又従弟でヴェッティン家の別系統([[アルベルティン家|アルブレヒト系]])に属する[[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]に与えられ<ref name="ブリタニカ"/>、ヨハン・フリードリヒには「ザクセン公」の肩書と[[テューリンゲン|チューリンゲン地方]]の所領だけが残された。一方で、モーリッツの勢力拡大を恐れたカール5世は、ヨハン・フリードリヒの息子たちにテューリンゲンの各地の[[方伯]]として領土を与えて、ヴェッティン家の統一を阻んだ。 |
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モーリッツの勢力拡大を恐れたカール5世は、ヨハン・フリードリヒの子息たちに[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン]]の各地の[[方伯]]として領土を与えて、ヴェッティン家の統一を阻んだのである。 |
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[[1527年]]にユーリヒ=クレーフェ=ベルク公[[ヨハン3世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公)|ヨハン3世]]の娘[[ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク|ジビュレ]]と結婚し、4男をもうけた。 |
[[1527年]]に[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国|ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公]][[ヨハン3世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公)|ヨハン3世]]の娘[[ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク|ジビュレ]]と結婚し、4男をもうけた。 |
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* [[ヨハン・フリードリヒ2世 (ザクセン公)|ヨハン・フリードリヒ2世]](1529年 - 1595年) - ザクセン公 |
* [[ヨハン・フリードリヒ2世 (ザクセン公)|ヨハン・フリードリヒ2世]](1529年 - 1595年) - ザクセン公 |
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* [[ヨハン・ヴィルヘルム (ザクセン=ヴァイマル公)|ヨハン・ヴィルヘルム]](1530年 - 1573年) - ザクセン公、後にザクセン=ヴァイマル公 |
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*[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国]]([[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]):上記の国が統合したもの |
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2017年9月24日 (日) 14:15時点における版
ヨハン・フリードリヒ(1世)(Johann Friedrich (I.), 1503年6月30日 - 1554年3月3日)は、ザクセン選帝侯(在位:1532年 - 1547年)[1]。
ヴェッティン家エルンスト系のザクセン選帝侯ヨハンの長男。「ドイツ語: der Grossmütige」(英語: the Magnanimous[2]、度量公[1]、豪胆公[2])とも呼ばれた[1]。
マルティン・ルターと友好関係にあり、ヘッセン方伯フィリップと共にシュマルカルデン同盟の盟主となった[1]。しかし、1546年のシュマルカルデン戦争を経て、1547年に神聖ローマ皇帝カール5世にミュールベルクの戦いに敗れて捕縛され、選帝侯位と所領を剥奪された[1]。選帝侯位と所領のほとんどは又従弟でヴェッティン家の別系統(アルブレヒト系)に属するモーリッツに与えられ[1]、ヨハン・フリードリヒには「ザクセン公」の肩書とチューリンゲン地方の所領だけが残された。一方で、モーリッツの勢力拡大を恐れたカール5世は、ヨハン・フリードリヒの息子たちにテューリンゲンの各地の方伯として領土を与えて、ヴェッティン家の統一を阻んだ。
家族
1527年にユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘ジビュレと結婚し、4男をもうけた。
- ヨハン・フリードリヒ2世(1529年 - 1595年) - ザクセン公
- ヨハン・ヴィルヘルム(1530年 - 1573年) - ザクセン公、後にザクセン=ヴァイマル公
- ヨハン・エルンスト(1535年、夭折)
- ヨハン・フリードリヒ3世(1538年 - 1565年) - ザクセン=ゴータ公
脚注
出典
関連項目
- ザクセン=ゴータ公国(ザクセン=コーブルク公国):末子ヨハン・フリードリヒ3世が統治した国
- ザクセン=コーブルク=ゴータ公国(ザクセン=コーブルク=ゴータ家):上記の国が統合したもの
- ルーカス・クラナッハ(1472-1553) - ルネサンス期ドイツを代表する画家。祖父フリードリヒ3世(在位1486-1525)に招聘されて以来、父ヨハン(在位1525-1532)、ヨハン・フリードリヒまで宮廷画家として仕えた。
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