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== 生涯 ==
== 生涯 ==
宝暦4年(1754年)、7代藩主・[[松前資広]]の長男として生まれる。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったという。父の死去に伴い、[[明和]]2年([[1765年]]に家督を相続。[[一橋治済]]、伊達家・島津家など反幕閣の人々と交友し、[[吉原遊廓|吉原]]の遊女を妾にするなど遊興費も多かった。そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、幾度も幕府から注意を受けたという。
宝暦4年(1754年)、7代藩主・[[松前資広]]の長男として生まれる。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったという。[[明和]]2年([[1765年]])10月11日、父資広の死去より、家督を相続する。同年12月15日、従五位下志摩守に叙任する。[[一橋治済]]、伊達家・島津家など反幕閣の人々と交友し、[[吉原遊廓|吉原]]の遊女を妾にするなど遊興費も多かった。そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、幾度も幕府から注意を受けたという。


対外的には強硬で、[[ロシア帝国|ロシア]]からの通商要請を拒否。[[寛政]]元年([[1789年]])には、[[国後島]]や目梨地方で起こった[[アイヌ]]の反乱([[クナシリ・メナシの戦い]])に[[新井田正寿]]・[[松井広次]]らを派遣して鎮圧した。寛政4年([[1792年]])に隠居した。
対外的には強硬で、[[ロシア帝国|ロシア]]からの通商要請を拒否。[[寛政]]元年([[1789年]])には、[[国後島]]や目梨地方で起こった[[アイヌ]]の反乱([[クナシリ・メナシの戦い]])に[[新井田正寿]]・[[松井広次]]らを派遣して鎮圧した。寛政4年([[1792年]])10月28日、隠居し、長男章広に家督を譲った。


天保3年(1832年)、死去。
天保3年(1832年)、死去。

2016年6月18日 (土) 13:16時点における版

 
松前道広
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦4年1月17日1754年2月8日
死没 天保3年6月20日1832年7月17日
改名 源助、外記、章広、幸広
戒名 松吟院
墓所 北海道松前郡松前町 大洞山法憧寺
官位 従五位下美作志摩
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 父:松前資広、母:八条隆英櫛笥賀子弟)娘・弁子
兄弟 道広、照子(松前等広室)、池田頼完
難波武広、秀子(蠣崎広命室)、蠣崎広文蠣崎広年
玉子(松前広典室、後横井重賢室)、
古田信真
正室花山院常雅娘・知子(敬子)
側室:平田氏
章広、男子、蠣崎広匡、竹子(藤倉保春室)、増子(小林義明室)、女子、杉村治義広純、幸之助、連之助、澄子、岩子、琴子
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松前 道広(まつまえ みちひろ)は、江戸時代大名蝦夷地松前藩の8代藩主。

生涯

宝暦4年(1754年)、7代藩主・松前資広の長男として生まれる。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったという。明和2年(1765年)10月11日、父資広の死去により、家督を相続する。同年12月15日、従五位下志摩守に叙任する。一橋治済、伊達家・島津家など反幕閣の人々と交友し、吉原の遊女を妾にするなど遊興費も多かった。そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、幾度も幕府から注意を受けたという。

対外的には強硬で、ロシアからの通商要請を拒否。寛政元年(1789年)には、国後島や目梨地方で起こったアイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い)に新井田正寿松井広次らを派遣して鎮圧した。寛政4年(1792年)10月28日、隠居し、長男章広に家督を譲った。

天保3年(1832年)、死去。

参考文献

  • 松前町『概説松前の歴史』