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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 由良国繁
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| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = [[天文]]19年]([[1550年]])
| 死没 = [[慶長]]16年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1611年]][2月15日]])
| 改名 = 国寿丸(幼名)
| 別名 = 六郎、新六郎
| 諡号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[式部大輔]]、[[信濃守]]
| 幕府 =
| 氏族 = 由良氏
| 父母 = 父:[[由良成繁]]<br>母:[[妙印尼]]
| 兄弟 = '''国繁'''、[[渡瀬繁詮]]、[[長尾顕長]]、[[成田氏長]]室、[[黒田直之]]室
| 妻 = 正室:[[結城晴朝]]の娘
| 子 = [[貞繁]]、[[忠繁]]、[[長尾宣景]]室
| 特記事項 =
}}

'''由良 国繁'''(ゆら くにしげ、[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]]) - [[慶長]]16年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1611年]][[2月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[由良成繁]]と[[赤井重秀]]の娘[[妙印尼]]の嫡男。弟に[[渡瀬繁詮]]と[[長尾顕長]]。正妻は[[結城晴朝]]の娘。子に[[由良貞繁|貞繁]]、[[由良忠繁|忠繁]]、女子([[長尾宣景]]室)。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は[[式部省|式部大輔]]、[[信濃国|信濃守]]。
'''由良 国繁'''(ゆら くにしげ、[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]]) - [[慶長]]16年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1611年]][[2月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[由良成繁]]と[[赤井重秀]]の娘[[妙印尼]]の嫡男。弟に[[渡瀬繁詮]]と[[長尾顕長]]。正妻は[[結城晴朝]]の娘。子に[[由良貞繁|貞繁]]、[[由良忠繁|忠繁]]、女子([[長尾宣景]]室)。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は[[式部省|式部大輔]]、[[信濃国|信濃守]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
天文19年(1550年) 、由良成繁の嫡男として誕生。
天文19年([[1550]]) 、由良成繁の嫡男として誕生。


[[天正]]6年([[1578年]])成繁が死去する前後に家督を継ぎ、[[横瀬氏|由良氏]]の第9代当主となった。同年[[越後]]で[[御館の乱]]が起こり、[[天正]]7年([[1580年]])に[[北条氏政]]と[[武田勝頼]]の同盟が崩壊すると、[[武田氏]]は[[佐竹氏]]、[[里見氏]]と同盟を結び、上州はその主戦場となった。
天正6年([[1578年]])成繁が死去する前後に家督を継ぎ、[[横瀬氏|由良氏]]の第9代当主となった。同年[[越後]]で[[御館の乱]]が起こり、[[天正]]7年([[1580年]])に[[北条氏政]]と[[武田勝頼]]の同盟が崩壊すると、[[武田氏]]は[[佐竹氏]]、[[里見氏]]と同盟を結び、上州はその主戦場となった。


由良氏は父・成繁の代に[[上杉氏]]から[[後北条氏]]に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、佐竹氏とも連絡をとっており([[里見義頼]]及び[[太田康資]]宛て梶原政景書状)<ref>『紀伊国藩中古文書十二』霜月八日「新田・館林之事も太田へ被申寄半ニ候」</ref>、北条氏政が[[北条氏邦]]宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている<ref>『木村孫平氏所蔵文書』二月二十三日「此分に候者、当方終ニハ可向滅亡候哉、上州勝頼之物ニ罷成候共、慥氏政へ随身之様ニ者有間敷候、」</ref>。
由良氏は父・成繁の代に[[上杉氏]]から[[後北条氏]]に転じており、国繁と弟・[[長尾顕長]]は北条氏と誼を通じていたが、佐竹氏とも連絡をとっており([[里見義頼]]及び[[太田康資]]宛て梶原政景書状)<ref>『紀伊国藩中古文書十二』霜月八日「新田・館林之事も太田へ被申寄半ニ候」</ref>、北条氏政が[[北条氏邦]]宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている<ref>『木村孫平氏所蔵文書』二月二十三日「此分に候者、当方終ニハ可向滅亡候哉、上州勝頼之物ニ罷成候共、慥氏政へ随身之様ニ者有間敷候、」</ref>。


しかし天正8年([[1580年]])に国繁らは北条方に戻っており、同年9月に佐竹義重が長尾顕長の[[館林城]]を攻撃しており<ref>『彦根藩井伊家文書』(皆川広照書状写)九月十五日</ref>、同月20日には佐竹義重と合流した武田勝頼が小泉([[富岡秀高]])、館林(長尾顕長)、新田(由良国繁)領に火を放ち、[[膳城]]を落としている<ref>『館林市史 資料編 2 中世-佐貫荘と戦国の館林』館林市史編さん委員会編、館林市、2007年</ref>。
しかし天正8年([[1580年]])に国繁らは北条方に戻っており、同年9月に[[佐竹義重]][[長尾顕長]]の[[館林城]]を攻撃しており<ref>『彦根藩井伊家文書』(皆川広照書状写)九月十五日</ref>、同月20日には[[佐竹義重]]と合流した[[武田勝頼]]が小泉([[富岡秀高]])、館林([[長尾顕長]])、新田(由良国繁)領に火を放ち、[[膳城]]を落としている<ref>『館林市史 資料編 2 中世-佐貫荘と戦国の館林』館林市史編さん委員会編、館林市、2007年</ref>。


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天正10年([[1582年]])、甲斐武田氏が[[織田氏]]に滅ぼされると国繁兄弟は、他の上野国衆と同様に[[織田信長]]の重臣・[[滝川一益]]に仕えたが、同年[[本能寺の変]]で信長が横死すると、6月20日の[[神流川の戦い]]では滝川方として戦ったが<ref>『神流川合戦記』</ref>、これに[[滝川一益]]が敗北すると、北条方へ転じた<ref>『松平義行氏所蔵文書』六月二十二日「由良長尾向此口手切働可成之由」</ref>。


天正11年([[1583年]])9月、北条氏が離反した[[北条高広]]が篭る[[厩橋城]]を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の[[北条氏直]]に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、[[新田金山城|金山城]]と[[館林城]]の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は[[小田原城]]に幽閉されてしまう<ref>『石川忠総留書』</ref>。篭城勢は[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]、[[佐野宗綱]]と結び、北条方であった[[小泉城]]の[[富岡秀長]]を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。
天正11年([[1583年]])9月、北条氏が離反した[[北条高広]]が篭る[[厩橋城]]を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の[[北条氏直]]に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、[[新田金山城|金山城]]と[[館林城]]の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は[[小田原城]]に幽閉されてしまう<ref>『石川忠総留書』</ref>。篭城勢は[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]、[[佐野宗綱]]と結び、北条方であった[[小泉城]]の[[富岡秀長]]を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。


天正13年([[1585年]])正月、金山城、館林城は当初の予定通り[[北条氏照]]に明け渡され、兄弟の知行は安堵され、国繁は[[柄杓山城]](桐生城)、顕長は[[足利城]]に本拠を移した。ただし北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。
天正13年([[1585年]])正月、[[新田金山城|金山城]][[館林城]]は当初の予定通り[[北条氏照]]に明け渡され、兄弟の知行は安堵され、国繁は[[柄杓山城]](桐生城)、顕長は[[足利城]]に本拠を移した。ただし北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。


天正14年([[1586年]])正月、長尾顕長は佐野宗綱を討ち佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には[[北条氏忠]]が婿養子として入った。
天正14年([[1586年]])正月、[[長尾顕長]][[佐野宗綱]]を討ち佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には[[北条氏忠]]が婿養子として入った。


天正15年([[1587年]])、国繁兄弟はついに佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年([[1588年]])には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。
天正15年([[1587年]])、国繁兄弟はついに[[佐竹義重]]に通じ[[北条氏直]]に叛旗を翻したが、天正16年([[1588年]])には降伏、[[桐生城]][[足利城]]は破却され、兄弟は小田原に移された。


天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]でも、兄弟は[[小田原城]]に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉に仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から[[常陸国|常陸]]牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。秀吉の死後は[[徳川家康]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]に際しては[[江戸城]]の守備を命じられた。戦後、[[下総国|下総]]相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。
天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]でも、兄弟は[[小田原城]]に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・[[妙印尼]]が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉に仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から[[常陸国|常陸]]牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。秀吉の死後は[[徳川家康]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]に際しては[[江戸城]]の守備を命じられた。戦後、[[下総国|下総]]相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。


慶長16年(1611年)、61歳で死去。貞繁がその跡を継いだ。なお、貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。
慶長16年(1611年)、61歳で死去。貞繁がその跡を継いだ。なお、貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。

2016年2月7日 (日) 11:32時点における版

 
由良国繁
時代 戦国時代
生誕 天文19年](1550年
死没 慶長16年1月3日1611年[2月15日]])
改名 国寿丸(幼名)
別名 六郎、新六郎
官位 式部大輔信濃守
氏族 由良氏
父母 父:由良成繁
母:妙印尼
兄弟 国繁渡瀬繁詮長尾顕長成田氏長室、黒田直之
正室:結城晴朝の娘
貞繁忠繁長尾宣景
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由良 国繁(ゆら くにしげ、天文19年(1550年) - 慶長16年1月3日1611年2月15日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将由良成繁赤井重秀の娘妙印尼の嫡男。弟に渡瀬繁詮長尾顕長。正妻は結城晴朝の娘。子に貞繁忠繁、女子(長尾宣景室)。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は式部大輔信濃守

生涯

天文19年(1550年) 、由良成繁の嫡男として誕生。

天正6年(1578年)成繁が死去する前後に家督を継ぎ、由良氏の第9代当主となった。同年越後御館の乱が起こり、天正7年(1580年)に北条氏政武田勝頼の同盟が崩壊すると、武田氏佐竹氏里見氏と同盟を結び、上州はその主戦場となった。

由良氏は父・成繁の代に上杉氏から後北条氏に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、佐竹氏とも連絡をとっており(里見義頼及び太田康資宛て梶原政景書状)[1]、北条氏政が北条氏邦宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている[2]

しかし天正8年(1580年)に国繁らは北条方に戻っており、同年9月に佐竹義重長尾顕長館林城を攻撃しており[3]、同月20日には佐竹義重と合流した武田勝頼が小泉(富岡秀高)、館林(長尾顕長)、新田(由良国繁)領に火を放ち、膳城を落としている[4]

天正10年(1582年)、甲斐武田氏が織田氏に滅ぼされると国繁兄弟は、他の上野国衆と同様に織田信長の重臣・滝川一益に仕えたが、同年本能寺の変で信長が横死すると、6月20日の神流川の戦いでは滝川方として戦ったが[5]、これに滝川一益が敗北すると、北条方へ転じた[6]

天正11年(1583年)9月、北条氏が離反した北条高広が篭る厩橋城を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の北条氏直に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、金山城館林城の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまう[7]。篭城勢は佐竹義重佐野宗綱と結び、北条方であった小泉城富岡秀長を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。

天正13年(1585年)正月、金山城館林城は当初の予定通り北条氏照に明け渡され、兄弟の知行は安堵され、国繁は柄杓山城(桐生城)、顕長は足利城に本拠を移した。ただし北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。

天正14年(1586年)正月、長尾顕長佐野宗綱を討ち佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には北条氏忠が婿養子として入った。

天正15年(1587年)、国繁兄弟はついに佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年(1588年)には降伏、桐生城足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原征伐でも、兄弟は小田原城に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉に仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。秀吉の死後は徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いに際しては江戸城の守備を命じられた。戦後、下総相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。

慶長16年(1611年)、61歳で死去。貞繁がその跡を継いだ。なお、貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。

脚注

  1. ^ 『紀伊国藩中古文書十二』霜月八日「新田・館林之事も太田へ被申寄半ニ候」
  2. ^ 『木村孫平氏所蔵文書』二月二十三日「此分に候者、当方終ニハ可向滅亡候哉、上州勝頼之物ニ罷成候共、慥氏政へ随身之様ニ者有間敷候、」
  3. ^ 『彦根藩井伊家文書』(皆川広照書状写)九月十五日
  4. ^ 『館林市史 資料編 2 中世-佐貫荘と戦国の館林』館林市史編さん委員会編、館林市、2007年
  5. ^ 『神流川合戦記』
  6. ^ 『松平義行氏所蔵文書』六月二十二日「由良長尾向此口手切働可成之由」
  7. ^ 『石川忠総留書』